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デジタルアーカイブと、ことばの未来
2016.08.15
「シンギュラリティとシュワの墓所、もうひとつのユートピア?」(bound baw編集長・塚田有那)
「INTER-SCOPE」と題した対談連載シリーズは、
未来のクリエーションにとって重要な問題に迫るリサーチプロジェクトでもある。
はじめのテーマは、「アーカイブ」と「ことば」から生じる問題だ。
異なる「見取り図」を重ね合わせる
「SCOPE」という言葉には、カタカナ通りの「スコープ」のほかに、「(行動・思考・知覚などの)範囲、領域」「思考力、知的能力」「(行動できる)余地、自由」といった意味がある。そして、アーティストや科学者がもつ「スコープ」は、ときに壮大で、ときに繊細で、人々に驚きを与えるものがある(そして、わたしたちはそれに感動することができる)。
しかし、わたしが見ている世界と、あなたが見ている世界は、同じようで、同じではない。ある人間が持つ「思考や知覚の範囲」には、わたしたちが人間である限り、必ず何らかのバイアス(偏見)が存在している。今年公開されたディズニー映画『ズートピア』はまさにそんな話であった。
しかし、この「バイアス」を逆手にとって、ある人間が見出した特殊な「スコープ」だと捉えることもできるかもしれない。アーティストの想像力や感性の中に、科学者が見出そうとする未来の中に、それぞれの持つ「世界の見取り図」が存在する。
その幾種もの「見取り図(スコープ)」が折り重なるとき、わたしたちは新たな世界の見方を発見し、まだ解決しえぬ問題や謎の核心に迫ることができるだろう。そこで、「INTER-SCOPE」と名付けたこのコーナーでは、問題の核心に迫ることを目的とした、いくつかの異分野同士の対談を行なおうとしている。全く異なる人間同士がぶつかる瞬間の、そのクリエイティブな衝突の中から新たな視座を見出してみたいのだ。
思考と創造力を拡張する、いくつかの「問い」
しかし、とりあえず異分野を集めて、「何か新しいことを考えてみよう」なんて言うのも間が抜けている。そもそも、ロボットや人工知能や自動運転車がどれだけ新しいモノに見えても、テクノロジーは常に「古くなる」という問題を抱えている。
テクノロジーは、わたしたちの生活を一新し、すでに自然環境の一部のようなものになっている。そう考えてみると、未来を更新しそうな新しい技術が生まれたときに、ことさらそれらを賞賛し、その物珍しさに振り回されているのでは、とりわけ数年先のレベルでしか「新しいもの」は生まれないだろう。
そのときの最先端テクノロジーを使って、何ができるかではなく、どう遊べるのか、どんな発見がこの先にあるのか、どんな理想の世界(ユートピア)を作れるかを想像する方が、よっぽどエキサイティングではないだろうか。どれだけの時代や技術を経ても、わたしたちの本質は変わらないはずだ。
そうした思考と創造力を拡張するためのステップとして、「INTER-SCOPE」ではいくつかの「問い」を投げかけ、それらを実際のリサーチプロジェクトとして展開していきたいと思う。
ひとつは、「アーカイブ」の問題だ。
突然具体的な話になるが、デジタルアートの保存・再現の問題は、いま世界中の至るところで議論されている。わたしたちはもうブラウン管でTV番組を見ることもないし、ソフトウェアのOSが古くなればそのコンテンツはすぐに再生できなくなってしまう。
これは、この先何らかのテクノロジーを用いたアートやエンタテインメントを作ろうとする人々にとって、常につきまとう問題だろう。作品の痕跡を残すということは、個々人の主観にとどまらず、時代の文化を後世に引き継いでいくということになる。そこで「INTER-SCOPE」では、「デジタルアート・アーカイブの未来」と題した連載企画において、文化をアーカイブし、大きな歴史の時間軸に継続させていく方法やその意義について、アーティスト、人類学者、エンジニアなど、さまざまな実践者たちと対話を重ねていく。ここでのリサーチを兼ねた対談から、新たな方法論を導き出していくことがこのプロジェクトの目的だ。
もうひとつは、「ことば」と「ことば以上のもの」の問題だ。
わたしたちは、ことばでコミュニケーションし、ことばで何かを記述しようとするが、たとえばある土地を訪れたとき、その空間に立ち上る「気配」のようなものも感じたりするだろう。そして、音楽やアートや舞台を鑑賞したとき、文字通り「ことばにならない」感覚を覚えることは多々あるはずだ。その複合的な感覚は、果たしてなんと呼べばいいのだろうか?
もちろんそれは、ビジュアル、音楽、身体表現と呼ばれたりするもので、「ことば」ではない。いつでもわたしたちは、そこにある「ことば以上のもの」を脳や体で感じ取り、その感覚を共有している。近い未来、VR技術がさらに発展すれば、その体験はますます「ことばにならない」と言い合うようになるだろう。
そんな時代だからこそ、「ことば以上のもの(More than logos)」を、もう少し違った角度で定義できないだろうか、と考えている。その新たな定義が見えてきたとき、たとえばプログラミング言語にも新たな視野を見出すことができるかもしれない。ザック・リバーマンというメディアアーティストは、自ら主宰するスクールを「SFPC = School For Poetic Computation」と名付けた。そこでの「詩的なコンピューテーション」とは、果たしてなんだろうか? ひとつには、人間の感情的な要素をコンピュータープログラムに搭載するということかもしれない。だが、「Poetic」という言葉が内包する意味は、それだけではない気がするのだ。
この世界を知覚するわたしたちと、世界で起こる現象の間にあるもの。そんなものを新たな「情報」として見直すことができれば、クリエーションにおける「リアリティ」の定義も変わってくるかもしれない。
シンギュラリティと「シュワの墓所」
「ことば以上のもの」と、デジタルアーカイブ。そんなことをぼんやりと考えているとき、ふと『風の谷のナウシカ』のマンガ版に描かれた「シュワの墓所」が思い出された。「シュワの墓所」とは、まだ科学文明が発達していた旧世界(「火の7日間」で世界が焼き尽される前)の遺跡のことである。そこには世界の浄化の時を待つ科学者たちが墓の中に住み着き、「墓所の主」と呼ばれる超知能(今で言えばAI?)から与えられる「真実の情報」を解析し続けている、というものだ。
墓所そのものが人間の生み出した人工生命体であり、王蟲、腐海、巨神兵を生んだのも、すべて旧世界のテクノロジーを駆使した人間たちだったことをナウシカは知る。
ここからは超飛躍する妄想だが、この墓所は、AIが人間の能力を越えるとされる「シンギュラリティ」も示唆しているし、永遠に墓碑へ情報が「アーカイブ」されるという意味では、仮想通貨の基軸とされる「ブロックチェーン」の概念にも近い気がする。最終的にナウシカはこの墓所を破壊するのだが、旧世界の人間が墓所を残そうとした行為は、いまのテクノロジーを取り巻くわたしたちの欲望と、何ら変わりがないようにも思える。ナウシカは果たして、何を壊し、何を残したのだろうか?
そんな妄想を繰り広げていると、20世紀に生まれたファンタジーには、大体の未来予想図が描かれているなあ、と感心せざるを得ない(その多くはディストピアだったりもするのだが)。しかし、21世紀のいまだからこそ、こうしたファンタジーの想像力と、現代のテクノロジーや科学の知見を交えて、別のユートピアを想像してみたいのだ。
こうした妄想を含む「問い」と実践者たちの対話から、未来のクリエーションに役立つ新たな「スコープ」を送り出したいと思う。
CREDIT
- TEXT BY ARINA TSUKADA
- 「Bound Baw」編集長、キュレーター。一般社団法人Whole Universe代表理事。2010年、サイエンスと異分野をつなぐプロジェクト「SYNAPSE」を若手研究者と共に始動。12年より、東京エレクトロン「solaé art gallery project」のアートキュレーターを務める。16年より、JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」のメディア戦略を担当。近著に『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』(ビー・エヌ・エヌ新社)、共著に『情報環世界 - 身体とAIの間であそぶガイドブック』(NTT出版)がある。大阪芸術大学アートサイエンス学科非常勤講師。 http://arinatsukada.tumblr.com/