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未来の神話をつくる人々

2018.02.15

目的のない「遊び」には何が宿るか? ゲームと遊びと哲学の座談会(後編)

デビッド・オライリー(アーティスト)×犬飼博士(ゲーム監督)×飯田和敏(ゲームクリエイター)×ドミニク・チェン(情報学研究者)

デビッド・オライリーを囲んで行われた座談会。後編では、アートやゲームがそれに触れた人間とどのような相互関係を持つのか、遊びであり自己記述たりえる「Play」の持つ役割について議論がなされた。前編に引き続き、参加者はゲームクリエイター飯田和敏、情報学研究者ドミニク・チェン、モデレーターはゲームクリエイター犬飼博士が務めた。前編はこちら

徹底的に破壊される「私」

デビッド:基本的にどんなアートピースでも、見る人は何かしらの「自分」を投影する存在を見出します。よく犬は飼い主に似ると言いますが、ペットを見る時でさえ、人は自分を探しているんですよね。これと同様、アートを見る人は作品内に何かしら一貫したシステムを持つ世界を発見します。実はそれこそアートが伝えられることなのです。

飯田:三宅さんは、AIからゲームワールドを作りますよね。それはさまざまな役割と階層を持つAIを組み合わせから、あるひとつの生態系を作っていくことです。その中を生きるキャラクターたちは仮想の身体を持ち、生態系の中でセンサリングをしながら、自律的に物を考えて生きています。

その中に「私」として登場するプレイヤーは、ゲーム世界の中から見ると身体を持たない異物ともいえます。ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』のごとく、主人公の天使は人間の世界にいるものの、生身の人間に触れることができません。ゲームにおいても、現実の人間はそうした異次元の存在として登場するのです。そしてデビッドの『Everything』で、プレイヤーは森羅万象となります。いま話した人工知能環境における異物としての「私」というものを、もっと先鋭的に描いているんです。僕が最も感銘を受けたのはそこで、この世界では徹底的に「私」が破壊される。そしてその破壊が笑いを呼ぶんです。

デビッドの作品に衝撃を受けたと語るゲームクリエイターの飯田和敏(写真中央)
*この後、三宅は所用により退場。
ファンタジーは、自然界のサンプリング&リミックス

デビッド:人が悟りの境地に入ると、何をするでもなく笑いが起きると言われますね。人間のアイデンティティは精度高く固定されたもの。言い換えれば、アイデンティティを強固に持てば持つほど、それに対する脅威が増えていくのです。

一方で、自分のアイデンティティの境界を曖昧にすることでその脅威から逃れることもできるかもしれません。それは自己のアイデンティティとしての個別性を保ちながら、身の回りに存在するあらゆるものと融合しようとするというアプローチです。このように、自分を世界と同化させ、エゴとしてのアイデンティティを消滅させていくという考え方は太古の昔からあります。

それに、ファンタジーの中にあるものは、何かしら現実の世界と対応しています。例えばゲームのモンスターのデザインに長けた人は、現実世界に存在するさまざまな自然物をモチーフとすることが多いと言いますし、現実世界とまったく関係のないものをゼロから作ることはないはずです。つまりファンタジーとはこの世界の拡張であり、身の回りにある自然物をサンプリング・リミックスしているわけです。

デビッドが『Everything』のナレーションに採用した哲学者アラン・ワッツ。「禅」の書は著名な一冊。(犬飼私物)

犬飼:日本語の「自然」という単語は、「おのずからしかるべき」という言葉から成り立っています。これはワッツが頻繁に引用する、禅を世界に広めた仏教学者・鈴木大拙がよく使う言葉です。アーティストは、なぜ自然を引用して自分の作品を作るのか。また、僕たちはなぜそこに存在するものを自分に投影してしまうのか。

ゲームをプレイしている時もおそらくそうです。画面に映っているキャラクターや記号は明らかに私ではないのに、僕たちはそれを「私」として見立てるわけです。そのようなことに僕たちを駆り立てるものを、何と呼ぶべきでしょうか。まずは「ゲームという哲学」と言ってみましたが、実のところ僕はそれを正確な表現だとは思えないんです。該当する言葉がないから仮にそう言っているだけです。そもそもゲームにそのまま該当する日本語ってないですよね?

ドミニク:たぶんゲームに一番近い日本語は「あそぶ」という言葉だと思いますが、それは中国語の「遊」という概念とも違っていて、おそらく大和言葉に由来する単語ですよね。

1年くらい前に、僕の中でビデオゲームと日本的な「あそび」が融合した経験がありました。岐阜県にある、モダンな枯山水の庭に遊びに行ったのですが、僕は無造作に置かれた石庭の前にいて、30分くらいぼーっと枯山水を見ていました。何をしていたかというと、その枯山水が3Dシューティングゲームの『スターフォックス』のステージに見えていたんです(笑)。

枯山水もゲームステージになる?

つまり僕はその時に、完全に意識を飛ばすことで枯山水の中に入ってたんですね。縁側に座って、「ここを飛んだら気持ちいいだろうな」と視点と意識をふわーっと浮遊させて。集中するとこれがなかなか楽しい(笑)。いわばHoloLensのようなデバイスいらずの脳内ARですから。それはここで話している哲学としてのゲームや遊びに近いものだと思います。

このように、目的が外部によって設定されていない遊びが、フィロソフィーたり得る遊びなのかなと思います。それは飯田さんが作られた『太陽のしっぽ』や『アクアノートの休日』もしかり、デビッドの『Everything』もしかりだと思います。

目的のない「遊び」に哲学が宿る

(司会)「遊び」の語源を調べたところ、遊びとは、神をもてなすことや神にもてなす行為を人間が見ることに由来し、神に仕える者が行う芸能全体を「遊び」と呼んだようです。また、古語の「遊ぶ」は、心のままに動き回る、自由に振る舞うという意味があります。

犬飼:英語だとgameとplayは異なる単語として扱われているけれども、日本語だと「遊び」と「遊ぶ」が1つの漢字で表記されていますね。

ドミニク:僕たちが本を読む時は、無意識に想像が広がり、様々な空間を行ったり来たりしていると思います。半分寝ていて、明晰夢を見ているかのような状態ですね。先の枯山水での経験をした後に、あちこちで同じことをできないかなと試していて。

例えばこの間、研究合宿で行った温泉の露天風呂に入っている時に雨が降っていたんですが、雨は「遊び」のいいデバイスになると気付きました。ぼーっとお風呂入りながら、自分の意識を乗せる媒介としてその雨滴をたどって、向こうに見える山の一本松まで行けるかと試したんですね。30分くらいかかりましたが、行けました(笑)。温泉に入ると自分の境界線が曖昧になるから、よりトリップしやすいんだろうなと。リアル『Everything』をやるには温泉がいいと思います(笑)。

当日は参加者の私物から貴重本やゲームが並べられた。

ドミニク:このように外から目的を定義できないような行為こそが「遊び」だとすれば、ゲームのなかで定まった目的以外の「遊び」をどのように設計できるのか。別の言い方をすれば、プレイヤーの自律性を高めるにはどういうことができるのか、という問題意識が、ゲームの哲学と実践的なゲームデザインが交差できる地点ではないでしょうか。

犬飼:実践的な交差点として僕も最近新しい「遊び」をやりはじめてみてます。未来の運動会プロジェクト』という、運動会の開催に向けて新しいスポーツを作るハッカソンなんですが。みんなで自由にPlayしながら試行錯誤していくのです。自由に身体や重力などその場にあるものでゲームを作ったりする遊びです。スマホから棒まで何でも使ってOKなんですが、プレイヤーひとりが面白いだけでなく運動会会場全体が湧くようなゲームをつくるという遊びなんです。

 

実際に体験してみるとよくわかるのですが、会場全体を意識しつつ、つくると遊ぶを高速に回転させることは、主観と客観とを高速に回す行為なんです。温泉でぼーっとの逆で高速すぎて自分が置いて行かれるのを必死に留めようとするような速度。

その元となる発想が、「New Games」です。ご存知1968年にスチュアート・ブランドらがつくったアメリカの雑誌『Whole Earth Catalog』で、「World Game」というバックミンスター・フラーが提唱した概念が紹介されています。地球というゲームフィールドはひとつで、プレイヤーは宇宙船の乗組員のような共同体だから、その中で共に死なないようにバランスをとって「ゲームしよう」とする情報デザインの研究であり思想です。インターネットコンテンツの元祖とも言えますね。スチュワートたちはそのイケてるその思想を引用し、巨大なボールを地球に見立てて、ただ皆で落とさないようすることをゴールとするスポーツゲームをデザインします。そこから「New Games Movement」が展開していきます。

この後スチュアート・ブランドに思いっきり影響されたスティーブ・ジョブズがApple Computerなんかを出して、この新しいデバイス上でバーチャル空間上でできるゲームが増えていまに至ります。ですからゲーム史的にみればiPhone等電子コンピュータのゲームプラットフォームは、もとを辿ればWorld Gameにルーツがあるのだと思います。

『Whole Earth Catalog』に端を発する遊びのコンセプト「New Games」

飯田:同じ「ゲーム」という言葉を引き継いでいるけれども、大きな質的転換がこの時点でもたらされているんですね。

犬飼:そもそもゲームというのは遊びだったんです。ところが遊びだったゲームをノイマンが引用して、経済を始めとする世の中の出来事の例え話として書いてしまった。飯田さんが指摘してくれたようなゲームをめぐる転換はこの「自然や人間」と「ノイマン型コンピューター」という2つの間は何かをめぐって起きており、このどちらかにするかというより、いかに無限のグラデーションで接続するかということを考えないといけないと思っています。 そのときのメディアを仮に「遊び型コンピュータ」と呼んでみています。

彼が「遊び型ゲーム」から新たに「ノイマン型ゲーム」というものを作り出して、それを「ゲーム理論」と言ったから話がややこしくなってしまったんです。ゲーム理論はますます大流行しており、余暇や恋愛指南からビジネス、選挙、戦争にまでと僕らの生活を取り囲んでいます。つまり「遊び型ゲーム」と「ノイマン型ゲーム」という2つのゲームという哲学の世界を生きているんです。

図:犬飼博士

犬飼:それは当然それを形作ろうとするデバイスにも影響さえているでしょう。三宅さんが作っているAIやデビッドの『Mountain』のように、いま僕たちが作ろうとしている可能性だけが存在しているゲームみたいなものは、あらかじめ決められたゴールがある「ノイマン型ゲーム」を実行するために作られた「ノイマン型コンピュータ」よりは、ゴールとなる形すらユラユラと移ろう遊びのために作られた「遊び型コンピュータ」に実装されるのが自然なんだろうなと思います。

デビッド:人間よりも早く特定のゲームを習熟することができるコンピュータが、人間の知的生産力を補助できるのは明らかです。ですから、これからの人間は、人間の感覚として納得できる新しい課題を見つける必要がありますね。

ですから私は、課題を与えてプレイヤーの力を試すのではなく、まったく新しい世界の見方を提供できるゲーム作りに興味があります。この場合のパースペクティブ(見方)は物理的なものではなく、心の中のパースペクティブを指しています。人はそれを自在に変えることが本当はできるはずです。

犬飼:スポーツハッカソンをやった時に「これは大発明だ!」と思ったんです。子どもの頃、誰しも横断歩道の白い部分だけを踏んで向こうまで渡ったり高い所から飛び降りてみた りと、日々の中からゲームを生成してイキイキと無為にプレイしていたと思います。その希少な時期の気分をしばし取り戻す方法を発明したと感じたんです。

これを一緒に体験したアーティスト/研究者の江渡浩一郎さんは、「世界を小さく切り取ったとき、そこが自由だと分かると人間はとてつもない楽しさを感じる」と評してくれました。その切り取り方は多元的だけれど、範囲があるからこそ人は自由を感じることができるのだと。

座談会は渋谷FebCafeの上にあるMTRL Tokyoで開催された。

デビッド:アーティストの役割は、世界を自分の視点で切り取って作品にするということです。もちろん人によって、切り取るものや型が違います。人間のアイデンティティや人格を形成するのは、その瞬間瞬間の決断が積み重なったものであり、その結果がいまの自分の有り様ですから。

英語で個人を示す「person」という単語の語源は、仮面を指す「ペルソナ」というギリシャ語です。英語では遊びもplayだし、劇を演じることも同じplayという単語で表現されます。つまり一人ひとりが仮面をかぶって何かしらの役割を与えられ(あるいは何かしらのふりをしながら)、そこで演じているということです。ゲームが存在しなかった過去、playとは劇場に行って演劇を見て感激することでした。ところが現代はいま皆さんが持っているゲーム機を使ってplayします。つまり現代人は、そういった機器を使って人生をシミュレーションして心の慰めを得ているわけです。

デビッド:これは人間だけではありません。生きとし生けるすべてのものは、そうした自己記述をしています。例えば植物の葉っぱや枝の分かれ方は、一部を取り出してみると、そのパターンが他の部分でも繰り返し使われています。それは樹木の一部が自己を記述し続けているということです。また、森には色んな生物や物質、要素がふくまれていますが、森全体を見る時、私たちは森全体にどういった生物がいるか、どういう植生があるかを記述しています。

自己記述とは、自分が何者であるかということを自分に言い聞かせながら、他人にもそれを伝えることです。もう少し視点をズームアウトさせると、生命には階層構造があります。そこには色んなレベルがあって、それぞれのレベルで戦いが繰り広げられているわけです。自然界ではお互いに食べ合い、殺し合いながら物質が循環しています。

『コール オブ デューティ』のようなゲームは、すごく野蛮ではありますが、実は生きるって何だ?という問いがそのまま入っているので、あのゲームは人生の一部を記述するアートであるとも解釈できます。『Everything』というゲームは色んなオブジェクトに憑依することで人、間がそれぞれのオブジェクトの自己記述をしているのです。それはゲームをプレイすることと演劇を演じる(play)することと共通した体験と言えるのかもしれません。

司会:まだまだ話は尽きませんが、会場の都合もあるのでこのあたりで。みなさま本日はありがとうございました。

 

CREDIT

Mirei
TEXT BY MIREI TAKAHASHI
編集者。ギズモード・ジャパン編集部を経て、2016年10月からフリーランスに。デジタルカルチャーメディア『FUZE』創設メンバー。テクノロジー、サイエンス、ゲーム、現代アートなどの分野を横断的に取材・執筆する。関心領域は科学史、哲学、民俗学など。
Rakutaro
PHOTO BY RAKUTARO OGIWARA
写真家。1991年 スウェーデン生まれ。2010年 多摩美術大学芸術学科入学。この頃から写真を撮り始め、2015年に中途退学。フリーランスの写真家として活動中。 http://raku-taro.tumblr.com/

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