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未来の神話をつくる人々

2018.02.12

ゲームは世界で最も影響力を持つ「哲学」かもしれない。ゲームと遊びと哲学の座談会(前編)

デビッド・オライリー(アーティスト)×犬飼博士(ゲーム監督)×ドミニク・チェン(情報学研究者)×三宅陽一郎(ゲームAI開発者)×飯田和敏(ゲームクリエイター)

原子から動物、果ては銀河系まで、この世界のあらゆるものに憑依し、それぞれの視点から世界を眺めるゲーム『Everything』を生み出し、世界的な注目を集めるアーティスト、デビッド・オライリーを囲んでの座談会が、ゲームクリエイター犬飼博士の呼びかけのもとに開催された。参加したのは『アクアノートの休日』や『太陽のしっぽ』などエクスペリメンタルなゲームを制作してきたゲームクリエイターの飯田和敏、情報学研究者ドミニク・チェン、人工知能開発者の三宅陽一郎だ。

デビッド・オライリー
1985年、アイルランド生まれ。斬新なスタイルのCGアニメーション制作を続け、2009年、アニメーションの伝統であるネコとネズミの関係性を現代性豊かにアップデートした『プリーズ・セイ・サムシング』は世界各地のアニメーション映画祭で賞を総嘗めにする。スパイク・ジョーンズ監督『her』で主人公セオドアがプレイするゲーム画面をデザインしたことで更なる注目を集め、2015年に”山を眺め続ける”ゲーム作品《Mountain》を発表。その後、2017年4月にリリースされた《Everything》は絶大な評価を受け、20以上の賞を受賞している。
犬飼博士
遊物体アソビウム / ゲーム監督。 つながりと笑顔を生むツールとしてゲームとスポーツに着目。 eスポーツの 世界大会の予選を国内で開催し日本代表を引率、大会運営等を手がける。 スポーツとITを融合した「eスポーツグラウンド」や「スポーツタイムマシン」等の作品発表。現在は「未来の運動会プロジェクト」にて遊ぶことと作ることを自然と行うデベロップレイヤーを育成中。 現代的なスポーツマンシップとしてスペースマンシップを提唱。
飯田和敏
ゲーム作家。立命館大学映像学部教授。勝ち負けや明確な目的を定めない海底散策ゲーム『アクアノートの休日』(1995年,プレイステーション)でデビュー。以降『太陽のしっぽ』『巨人のドシン』などをリリース。日本科学未来館の常設展示『アナグラのうた-消えた博士と残された装置』の演出を担当。本作品は平成23年度[第15回]文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門優秀賞に選出されている。現在は「絵画とゲーム」をテーマにした私的プロジェクトを展開中。
ドミニク・チェン
博士(学際情報学)、早稲田大学准教授。クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事、株式会社ディヴィデュアル共同創業者。IPA未踏IT人材育成プログラム・スーパークリエイター認定。『TypeTrace』、『リグレト』、『Picsee』、『シンクル』などのサービス開発を行い、2015年と2016年で連続してApple Best of App Storeを受賞。2016年度、2017年度グッドデザイン賞・審査員兼フォーカスイシューディレクター。近著に『謎床:思考が発酵する編集術』(晶文社、松岡正剛との共著)。訳書に『ウェルビーイングの設計論:人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社、渡邊淳司との共同監修)など。
三宅陽一郎 
日本デジタルゲーム学会理事 / ゲームAI開発者。京都大学で数学を専攻、大阪大学(物理学修士)、東京大学工学系研究科博士課程を経てデジタルゲームにおける人工知能の開発・研究に従事。IGDA日本ゲームAI専門部会設立(チェア)、芸術科学会理事、人工知能学会編集委員。主な著書に『なぜ人工知能は人と会話ができるのか』(マイナビ出版)『人工知能のための哲学塾』(BNN新社)『人工知能の作り方』(技術評論社)最新の論文は『大規模ゲームにおける人工知能─ファイナルファンタジーⅩⅤの実例をもとに─』(人工知能学会誌 2017年、AI書庫にて公開)。
ゲームは世界で最も影響力を持つ「哲学」かもしれない

犬飼:今日皆さんにお集まり頂いたのは、ほかでもデビッド(オライリー)が来日中とあって、どうしても話しておきたいことがあったからなんです。僕は以前から彼のファンでしたが、2017年春にリリースされた彼のゲーム『Everything』は、「ゲーム」の一種の革命であり、すごく重要なターニングポイントがやってきたと考えています。そして彼の思考はとにかく非常に興味深いので、みんなとゆっくりお話しできたらなというのが今回の趣旨です。

この座談会の火付け役となった犬飼博士(写真右)

まず今日はここにいるゲームを深くしつこく考えデザインしている方たちと「Game as philosophy. ゲームという哲学」というトピックについて話したいと思っています。なぜなら、僕は「いま世界で最も影響力を持つ哲学」はゲームであると考えているからです。その根拠は、今日のコンピュータの祖である数学者ジョン・フォン・ノイマンと経済学者オスカー・モルゲンシュテルンが書いた『Theory of the game and economic behavior(邦訳:ゲームの理論と経済行動)』というゲーム理論の本が1944年にアメリカで発売されたことに遡ります。

ゲームの理論と経済行動〈1〉
著:ジョン・フォン ノイマン
 (ちくま学芸文庫) 
http://amzn.asia/52gr5rH

これは経済活動の中で起きる現象をゲームにたとえて解説した本で、刊行当時は爆発的にヒットしました。以来、ゲーム理論はビジネスの世界で大流行し、特に英語圏では「ゲーム理論を使えばビジネスは大成功する」ともてはやされました。つまりその頃からゲームは牧歌的な遊びから、緻密で正確な“使えるもの”として世の人たちから信用されるようになったんです。その後パーソナルコンピューター普及とともに、いわゆる「娯楽としてのゲーム」が台頭してきました。今や映画を超える市場規模になったと言われています。

つまり現代を生きる僕たちは、仕事と遊びという生活の2つの領域をゲームによって包括されている状況に置かれています。これが「ゲームという哲学」の前提となる世界の解釈です。まずはこんな質問から始めたいとおもいます。「あなたはなぜゲームを作るのか?」です。

最近、日本にも拠点をもった日本文化フリークのデビッド・オライリー

デビッド:その問いに答えると、僕は基本的には自分の持つ主観的な思考を人と共有するため、ですね。とはいえその思考はとても複雑に絡みあっていて、詳しく説明するのは難しい。とにかく僕は、世界をバーチャル的に表現することに興味があります。アニメは何かしらの世界観を直線的なタイムラインの上に表現する媒体ですが、ゲームは他の次元をその線上に追加することができます。そこには無限の可能性が広がっていて、複数の次元が交錯する表現形態なのです。

もし歴史上の偉大な画家や彫刻家が現代にタイムスリップしてきたなら、おそらくゲームを作るんじゃないでしょうか。なぜならゲームは最も柔軟な可能性を持つメディアだからです。ゲームは究極の芸術表現手段になると僕は考えています。ただ、複雑であればいいわけでもなく、幅の広い表現の可能性を選択できることに意味があると思います。

犬飼:スクエアエニックスで人工知能の研究を続ける三宅さんにも同じ質問をしたいと思います。三宅さんは、なぜゲームを作るのでしょうか?

三宅:僕が人工知能の研究フィールドにゲームを選んだのは、生命の仕組みを理解し、ゲームの中に息づく新たな生命を作りたかったからです。僕はすべてのキャラクターは仮想空間の中で生きていると思っていますし、ゲーム産業もそれを目指していると思ってこの業界に入りました。でも、実際はそうでもなかった。じゃあ僕が実際に作ってやろうと思っていまに続いていますね。

幼少期から大のゲーマーを自負するドミニク・チェン

ドミニク:僕はゲームにおける哲学と、先ほど犬飼さんが述べたノイマンらの「ゲーム理論」は異なるものだと思っています。なぜなら、ゲーム理論は哲学ではなく、あくまでコンピュテーションの計算モデルだからです。例えば、経済活動の中ではたくさんのエージェント、つまり人間が意志決定をしていて、それぞれに正義や思惑がありますが、有名な例に「囚人のジレンマ」という思考実験がありますね。これは別々の場所に収監された2人の囚人がいたとき、どちらかが相手を裏切って自白すると自分が得をするというモデルです。つまり誰かが勝てば誰かが負ける、言い替えれば誰かが損をすれば誰かが儲かるという資本主義の縮図のようなものですね。

これと同様、長期的に見るとフォン・ノイマン型のゲーム理論モデルでは結局お互いのリソースの奪い合いになり、サスティナブルな社会につながらないと思うんです。最近はゲーム理論が前提とする「合理的な経済判断を行うエージェント」=Econ(イーコン)のモデルが批判の対象にもなっており、合理的な経済判断だけではなくそれを越えるモデルとして​、例えばお互いの行動を模倣し合うような社会学習(ソーシャル・ラーニング)型のエージェントモデルが提唱されていたりします。

一方で、ゲームは文学と似たジャンルだとも思うんです。ゲームの中で僕らが感じる「体験」それ自体が、その後の人生を生きていく上での大事な素材になる。例えば、僕は最近『Fallout 4』というゲームでトラウマになったことがあって。

そこでは、ある事情から自分の息子を殺すか生かすかを選択するシーンがあるんです。自分が冷凍保存されている間に自分の息子が60歳になっていて、敵対する勢力の親玉になっているという設定なんですが、僕はどうしてもその息子が許せなくて、悩んだ結果「やはり生かしておくべきではない」と殺す判断をしてしまったんです。ところが、それ以来やたらと悪夢を見るようになって(苦笑)。

つまり僕は、ゲームの中の自分の行為によって、現実世界でトラウマを負ってしまったんです。文学や映画は受動的な体験ですが、特にゲームの場合は能動的に自分で行為を選択しているので、余計にインパクトが大きいんですね。これは重要なことです。

 

デビッド:ゲームが文学のようなものだということと、実際にゲームが社会に影響を与えるものであるという意見については、僕も同意見。例えば、小さな子どもがゲームをプレイすることで、社会的な責任感を醸成できることもあるでしょう。基本的に私たちは日々の生活でそれほどの危険には晒されることはないので、生きるか死ぬかという瀬戸際を体験できるのはゲームの中だけです。

特に最近のゲームは敵に倒されるシーンが非常にリアルなので、その結果自分の心が傷つく程の体験にまでなり得ます。いわばシミュレーションされた自分の失敗を突きつけられる、そんな体験をわざわざお金を出してするというのは、考えてみると結構奇妙なことですよね。それでも何度も失敗を重ねながら失敗を克服した時、何かしらの達成感が得られるのではないでしょうか。それはバーチャルな体験ですが、人間は生きていく上で達成感を必要とするものなので、その部分にゲームが寄与できるところはあると思います。

“ハイレゾ化”が人間の想像力を奪う

犬飼:例えば子どもが親から「あなたはこれをやってはいけません」「これをやりなさい」と言われるのと同じように、プレイヤーがゲームからもらったメッセージに影響されてしまうのは、ゲーム内に存在するある種の哲学に影響されていることだと思います。

ここでいう「哲学」とは、人間が学ばなければならない根本的なことという意味で、それを教えられるのは親や先生だけではなく、ゲームにもあると思うんです。そして(仮想空間であれ現実世界であれ)親も何かしらの“ゲーム”をプレイした結果そこにたどり着いているはずです。言葉を越えてその哲学を表現するための作業を、三宅さんはゲームの中に人工知能を作るという試みの中でやっているのだと思います。

三宅:ゲームの中のモンスターやキャラクターは、最初は記号として出発しています。それらに命を持たせようとすることは、そのゲーム空間を深く哲学するということだと思います。先ほどドミニクさんからトラウマの話をされていましたが、僕はみんながモンスターを倒すたびに傷ついているわけです。あのモンスターにも家族がいるかもしれないじゃないですか。倒した時に物陰からモンスターの子どもが見ていたり…。

彼らモンスターの命が軽く扱われ、単なる操作対象のサンドバッグになっていけばいくほど、そのゲームは面白くなくなります。逆に考えれば、ゲームが哲学的な空間であるためには世界やモンスターについて深く考える必要があるということです。

三宅がゲームAIの開発に携わったファイナル・ファンタジーXV

三宅:人工知能はゲームの血脈みたいなものですから、そこに生きている生命や精神を介さないとユーザーを深い場所に誘うことができません。ところが現実には逆のことをしていて、見かけはすごくリアルになっても、どんどんと記号化している。ユーザーを楽しませようとするあまり、ユーザー自身の考える余地がなくなり、結果的に彼らのゲーム離れを促進してしまっています。サービス精神を持つのは大切なことですが、僕はむしろもっとヘビーにする方が彼らをもう一度ゲームの世界に取り戻すことができると考えています。

著書『人工知能の哲学塾』でAIと人間の未来を提唱した三宅陽一郎

ドミニク:昔『ゲーム批評』というハードコアなゲーム雑誌があって、17年くらい前にその雑誌で展開されていた議論が、まさに三宅さんがいまお話された内容でした。というのも『ファイナルファンタジーⅦ』以降にFFバッシングが起きたんですね。それはユーザーの主体性に関わる話で、自分で自由に行動して物語を進めるのではなく、リニアな物語を誘導されていくというゲーム進行の設計の問題が論じられていたと思いますが、僕はそのことと関連して、解像度の低いグラフィックのゲームだった頃の方が、ユーザーの脳が自律的に働く分、ゲーム体験が深くなるという話も当時考えていたんですね(大学1年の時に、村上隆さんの芸術道場というBBSで論文公募があり、そこにこのテーマで応募しました)。

最近、僕はいろんなことにこの自律性の問題を当てはめて考えているんです。例えばこういうトークでも、解像度の高い議論をする「面白い」人と、解像度の低い一見「つまらない」人が分類されると思うんですが、実は後者からの方が得るものが大きかったりする。面白いかつまらないかというのは表面的な事象でしかなく、ロジックが完成されすぎた人と話しても、実はあまり得るものがないということもあるんですよね。

(司会)「想像する余白」のようなものを、どのレベルでデザインするかということですよね。

ドミニク:その通りですね。デビッドの『Everything』もそうだし、『Mountain』もそうですが、そこには自分の思念を投影できる余白がすごくあるんです。

(司会)ドミニクさんは以前に「憑依」という言葉も使っていましたね。

ドミニク:その通りで、憑依するためには対象の解像度が高過ぎると、つまり“付け入る隙がない”とダメなんですよ。

デビッド:昔のゲームはしょぼいグラフィックしか使えないという制約の中で絵を作っていました。もっと昔のゲームに遡ればテキストしかなかった。『Dwarf Fortress』というゲームの初期は、キャラクターがテキストのみで構成されていました。そのときはみんなテキストから想像をふくらませながらゲームをしていたわけです。アニメーションも同様で、モノクロで解像度が低くても見ている側が想像力で補完しながらイメージをふくらませていくことができました。

そこにはリアリズムと説得力を持たせる一貫したパターンがあるはずです。そう考えると、例えば「音楽」という表現形態はどうなんでしょう。というのも、西洋の音楽は音階やテンポといった楽譜に記されるパターンから構成されるので、本来はそこに何かしらの感情が込められていることはないはずです。音楽は時間軸に沿った直線的な体験です。絵画は二次元、彫刻は三次元です。映画は時間軸が入りますから、四次元だと言えるでしょう。一方で、ゲームはリニアな時間だけではなく、無限の分岐点と可能世界を作り出せるという意味で、五次元の体験にもなりうるのだと思います。軸がひとつ追加されるというよりは、無限の可能性がそこに生じるということです。

テキストサンプルテキストサンプルです。
置換してください。

 

史上最も複雑なコンピュータゲームと噂される「Dward Fortress」チュートリアル動画 

アートの完成度とビジネス的成功の反比例

犬飼:僕はデビッドが『Everything』に哲学者アラン・ワッツの高解像度な声を乗せたことに衝撃を受けました。アラン・ワッツをまさかビデオゲームで使うなんて思っていなかったわけです。しかもワッツという賢者キャラがゲームの中のバーチャル空間の別のキャラに向かって話しているのではなく、かつて講演会場やラジオリスナーに向かってしゃべっていた音声をそのまま切り貼りして、関係なさそうでもあり関係ありそうでもあるナレーションとして流れるという形でフィーチャーしているわけですから。

デビッド:バーチャルな世界に高解像度な肉声が被さることへの違和感というのは理解できます。ただ私はゲームを作る時、はじめに世界がどういう仕組みで動いているかというシステムをきちんと作ってしまえば、そこに何が入ってきても、それは信憑性のあるものとして成立し得ると考えています。『Everything』で最初に決めた最も重要なルールは、「すべてのオブジェクトをプレイアブルにする」「色んな環境を相互にリンクさせる」ということでした。

あらゆる生き物に憑依できるゲーム『Everything』

デビッド:ちなみに、アート制作の場合、それが市場に受けるかどうかはまったく当てにならない指標だと思います。むしろ、納得のできるアート作品が出来上がった時、それは必然的に経済的成功から最も離れたものになるでしょう。ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーは自身の著書で「私がアーティストとして理想的な状況に置かれることはおそらく一生ないであろう」と言っていました。彼からすれば映画は特に不幸な芸術表現手段です。なぜなら映画は常に市場と接続していますから。もしかするとビデオゲームは映画以上に悲惨な表現手段かもしれません。

飯田和敏の代表作『アクアノートの休日』に影響を受けたと語るデビッド。

ただ、商業ゲーム界にいる人々と僕の置かれた状況はちょっと違います。商業ゲームはゲーム専用機という特定のマーケットサイズに向けて作られているし、なおかつ、そこには多額の投資があり、膨大な人数が関わらなければならない。一方、僕のようなインディペンデントのクリエイターであれば、アート寄りのプロジェクトでも成功できるのかもしれません。

とはいえ、かつて飯田さんが商業ゲームとして制作された『アクアノートの休日』や『太陽のしっぽ』のような作品は、テクノロジーの進化やゲームの捉えられ方の変化にともない、今度はオリジナリティのある素晴らしいアート作品として評価されるのではないかと思います。

 

CREDIT

Mirei
TEXT BY MIREI TAKAHASHI
編集者。ギズモード・ジャパン編集部を経て、2016年10月からフリーランスに。デジタルカルチャーメディア『FUZE』創設メンバー。テクノロジー、サイエンス、ゲーム、現代アートなどの分野を横断的に取材・執筆する。関心領域は科学史、哲学、民俗学など。
Rakutaro
PHOTO BY RAKUTARO OGIWARA
写真家。1991年 スウェーデン生まれ。2010年 多摩美術大学芸術学科入学。この頃から写真を撮り始め、2015年に中途退学。フリーランスの写真家として活動中。 http://raku-taro.tumblr.com/

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