LAB
2020.03.27
メディアアートとは何か。ICC畠中実が浮き彫りにするメディアアートの輪郭。
TEXT BY MASAKI NAKAMOTO
メディアアートとは何か。ICC畠中実が浮き彫りにするメディアアートの輪郭。
メディアアートとは、一体何を指す言葉なのか? その問いに答えるひとりが、『メディア・アート原論』を久保田晃弘との共著で発行したNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]の主任学芸員、 畠中実だ。国内のメディアアートの金字塔的な施設ICCに長らく携わってきた畠中は、いまメディアアートに何を説くのか。アートサイエンス学科の「クリエイター特論」における畠中の講義の一部を紹介する。
講義では、『オープン・スペース 2018 イン・トランジション』展でも、NTTの研究所との連携展示の中でフィーチャーされている「触覚技術」や、近年活発に議論がなされている「メディアアートの保存」などをキーワードに、現在のメディアアートを取り巻く状況が語られた。また同時に、一面的に定義することのできない豊かさを持ったメディアアートという言葉を、多角的に解釈するためのヒントを散りばめるように進行された。文末には、今アートを学んでいる人、学ぼうとする人に向けていただいたメッセージを掲載している。
見る、聴く、触る。感覚が複合的に重なり合う表現。
ICCは1997年に開館し、今年で22年目になります。僕は1996年の開館準備の時から携わっています。
開館当時には、メディアアートという言葉は今ほど知られていませんでした。今でこそ知名度が上がってきた印象がありますが、2、30年前には美術の中でもマイナーな分野でした。有名なアーティストや、評価されるアーティストが増えたり、アートという領域を超えて知られるなど、メディアアートというジャンルが脚光を浴びるようになったのはこの5、6年のことじゃないでしょうか。
ICCでは、2018年7月20日より8月26日まで『ICC キッズ・プログラム 2018「さわるのふしぎ、ふれるのみらい」』というプログラムを開催しました。今年のテーマは「Haptic(ハプティック)」、つまり「触覚」です。触れる、皮膚で感じる、身体で感じることに、見るや聴くという感覚にはない、どういう気付きがあるのかを体験してもらう企画です。
なぜ触覚なのか――。一昨年はVR元年と呼ばれましたが、VRというのはいわゆる「リアリティのある世界に没入すること」を目的とした技術です。現代のVRにおいては、主に視覚がリアリティを与え、さらに聴覚を加えることでリアリティを増すのですが、そこに足りないのは触覚なんです。没入感を極めようとするほどに、見るや聴くだけでは足りないということが浮き彫りになってきました。
そういった状況もあって、触覚技術は今、メディアアート界隈だけでなく、ゲーム業界などの産業を巻き込んで注目され、大きな流れとなっています。色々な企業、あるいは工学系の分野の研究所では「触覚をどういうふうに使うことができるか」「触覚によって何がどう脳に伝わり、どういうふうに錯覚を起こすのか」「どうやったら少ない刺激で大きな錯覚を与えられるか」ということが研究されています。『ICC キッズ・プログラム 2018』においても、アーティストと共同するだけでなく、NTTの研究所と協力するなど色々な方に関わっていただいています。
アート表現の歴史においても、見ることを中心にした表現があって、次に聴くが表現に加わりました。さらに次には、メディアアートを中心に触覚が注目されているという流れがあります。90年代にメディアアートはマルチメディアアートとも呼ばれていましたが、マルチメディアというのは視覚だけでなく、聴覚や触覚も使う複合的なメディアということです。メディアアートは、見る、聴く、触る、身体で感じるといった感覚が複合的に重なり合った表現だと言えます。
テクノロジーの移り変わりと保存
今、ICCで開催している展覧会は『オープン・スペース 2018 イン・トランジション』です。『オープン・スペース』は2006年から毎年開催している展覧会で、その同時代に顕著なメディアアートの動向を紹介しています。今年のテーマである「イン・トランジション」という言葉は移行期や変革期という意味を持っています。
メディアやテクノロジーは、常に古いものから新しいものへと移り変わっていきます。例えば20年前の作品で使用されていたコンピューターの多くは今はもう動かなくなってしまっています。テクノロジーが移り変わることで、今はもう見ることができなくなってしまった作品が増えて、これからも増えるでしょう。その状況が加速すれば、5年前の作品すら動かなくなってしまうかもしれない。(もちろん、そのための対策を講じるようになってもいるわけですが)美術館に所蔵されても、何年か後に再展示されることになっても動かないというようなことが起こり得ます。こういった事情から、メディアアートは「Unstable media(不安定なメディア)」と呼ばれたりします。同時代の電子技術を基盤にした表現であるゆえ、常に更新されることが前提であり、永続性がない、一過性の現象とみなされる。これまで美術館の収蔵という考え方と、メディアアートの保存という考え方が相容れないがゆえに、芸術的価値がなかなか認められず、少し前までは、現代アートの中でもアートとみなされていないような状況がありました。
しかし、今は文化庁などが中心となり、色々なところでメディアアートの保存に関する研究が行われ、問題意識を共有し、積極的に作品を維持していこうという流れになっています。不安定で、永続性がないとみなされていたメディアアートを文化財として認め、それに対してアーカイヴするための予算をつけるということも起こっている。作品の保存についての状況が変わりつつあるという意味でも、メディアアートも変革期を迎えていると言うことができます。
未来とは、バックミラーに映った過去である
この写真は『オープン・スペース 2018 イン・トランジション』展の展示風景です。
Googleのトップページが見えていますが、これは2004年に作られたexonemo(エキソニモ)の作品《ナチュラル・プロセス》です。2004年に作られたと聞いて「『オープン・スペース』は2018年のメディア・アートの動向を紹介する展覧会じゃないのか」と言う人もいるかもしれません。確かにその通りです。しかし、ある時代を表象するものがその時代のものとは限らないということもあります。100年前のものが今の時代を映すということもあり得ます。
「トランジション」という言葉は、移行、転換、変革、遷移といった意味を持っています。テクノロジーは、常に古いものから新しいものに移り変わっていく。実際は時間をかけて変化していっているのですが、何か新しいことが起こった時に、僕らはそれが突然起こったかのように感じます(もちろん時代を画するものが突然登場するように進行しているということもありますが)。そういう現象を指して、カナダ出身の学者であるマーシャル・マクルーハンが「未来とは、バックミラーに映った過去である」と言っています。通り過ぎる時には気が付かないのに、通り過ぎた後、バックミラーに映ったそれを見て「少し前に見たものが未来である」と気が付く。「未来の兆しは現在にあるが、その時には気が付かないものである」ということをマクルーハンは言っています。
「トランジション」のただ中にいると、その変化になかなか気が付かない。しかし、移行期にこそさまざまな変化の可能性が内在している。その複数の可能性に、いかに気付くことができるかが重要なのだと思います。『オープン・スペース 2018 イン・トランジション』展で展示しているのは、ある意味では可能性として作品だと言えます。何年か後に、「あれは未来だったんだ」(2005年にロンドンのテート・ギャラリーで開催された『This Was Tomorrow』という展覧会がありました)ということに気が付くかもしれない。そういう性質をメディアアートが持っている、ということがテーマです。
メディアアートはテクノロジーを見直す
メディアアーティストの中には、ブラウン管テレビやオープンリールテープレコーダーなどの古いメディアに着目する人もいます。それは、それらに替わって新しいメディアが普及した時代に、かつてのメディアにどのような可能性があったのかを見直すということです。例えば、タイプライターのインターフェースは、未だにパソコンのキーボードという形で受け継がれています。メディアやテクノロジーは時代毎に色々な条件の中で生まれ、あるものは継承され、あるものは淘汰されてしまう。そんな中で、一度は淘汰されたけれど、「やっぱり使えるんじゃないか」と見直され、戻ってくるものもあります。例えばターンテーブルや最近また流行っているカセットテープは、一度は消えたけれどまた盛り上がりました。(現在ではCDはデータの入れ物という非常に中間的なメディアということになっています。それゆえ、データとレコードという二極化が生じたと言うことができます)
テクノロジーの流れは、かつては不可逆、つまり後戻りできませんでした。時間は後戻りできませんから、色々なものが不可逆なプロセスの中に飲み込まれ、新しいものが出てくると、古いものは消えてしまう。モダニズムというのはそういう考え方でした。けれども、ポストモダンを経て、現在では必ずしも時間が単線的にだけ進むとは限らなくなりました。
これにはアーカイヴも影響しているかもしれません。アーカイヴしていれば完全には消え去らない。もちろんNTTも史料館を持っていて、昔の電話機などを保存しています。なぜ歴史を大事にするかというと、人類の営みは過去の反省の上に成り立っているからです。だから過去を消してはいけない。過去があるからこそ現代があると言えるわけです。
たとえば、美術館や博物館というものはすでに終わってしまった、過去のものを収蔵、展示する施設であり、それらは現在において生きたものではありません。しかし、現在において、美術館、博物館は、生きた場所として考え直されていて、いかに現在と切り結ぶことができるかが考えられています。
そういう時代の中で、テクノロジーも二度、三度見直されるチャンスを持っている。産業においては、古いものを取り入れ直すことが難しい。例えば今「もう一度オープンリールデッキを作りませんか」と提案しても、「やりましょう」という企業はないかもしれません。だけど、アート表現であればそれは可能なんです。「オープンリールが持っていた可能性を、もう一度扱ってみよう」という人はいるかもしれない。それはアートが現実を触発する力を持っているということだと思います。
(学生から)メディアアートの今後の流行は、既存のメディアを使って作品を作るというより、メディア自体を作るという方向に変わるのか。その辺りをどのように考えておられますか。
その2つの方法を、完全に切り分けることはできないのではないでしょうか。アートはもう少し多様な気がします。和田永というアーティストがいるのですが、彼はブラウン管や、扇風機など、古い家電を改造して新しい楽器を作ります。古いメディアを、もともとの使用用途とは違うものに生まれ変わらせる。こういう人たちも、古いものを土台にはしているけれど、自分なりの再発明をしている。一方で、新たなテクノロジーを発明する人たちが、必ずしもある種の芸術としての完成度を持ち得ているとは限らない。
アートは20、30年すると見え方が変わったりするので、今の時代の評価軸に対して「こうやったら受けるだろう」という予想の元に作品を作っても仕方ないという部分があります。もちろん現在評価されるということも大事ですが、でもそれを目的化しないほうがいいかもしれません。
2018年から、メディアアートを学ぶ意味とは、どういう意義があるのかについて、ご意見を伺えますか。
有り体な言い方にはなりますが、僕はこれからの時代、アートが益々重要になると考えています。現代は生きづらい時代だと言われる。その生きづらさに抗うために「世の中に対して違う見方をしていく」「人と違うように考える」といった、アート的な思考は必要ではないでしょうか。もしかしたら、ある人はそれによってさらに生きづらくなるかもしれない。けれどそこからさらにもう一つ突き抜けたところに、もっと豊かな世界があるかもしれない。それがアートの可能性です。それが世界に変えられない方法だと思う。世の中は僕らを変えようと圧力をかけてくる。その圧力にどうやって対抗するのかという問題だという気がします。
僕は50歳になりますが「どうやったら自由に生きていけるのか」を考えてきた。どんな状況でも自由に生きることはできるか。たとえばサラリーマンという立場でいかに自由になるための生き方を自分で考え出すことができるかということ、それを考えるのがアートだと思ったりもしています。
特に美大や芸大には、「作家だったり、何かにならなければ意味がない」という価値観も存在しますが、でも僕はそんなことはないと思っています。アートが生き方や考え方の問題だとすれば、作家になろうがなるまいが関係ない。自由になるための生き方を身に着けた人が社会に出ていくということもまた重要なことです。アート業界だけでなく、企業の中にだってそういう人がたくさんいたほうが、より生きやすい世の中になるのではないでしょうか。
CREDIT
- TEXT BY MASAKI NAKAMOTO
- これまでに多くの美術家・音楽家・映像作家・エンジニア・演出家・研究者へのインタビューの企画・取材、タイムベースト・メディアの修復・再制作プロジェクト、アクセシビリティに関する記事の執筆・編集などを手掛ける。また「mama!milk 20周年記念コンサート」(2019)を企画・主催、「映像芸術祭 "MOVING"」(2012、2015)にてディレクターを務めるなど、自身でもコンサートや映像祭の企画・運営を行う。 https://unglobal.jp/