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死者の復活とデータの行方
2020.06.05
死者の「復活」をどう考える? 死後データの意思表明プラットフォーム「D.E.A.D.」特別鼎談(後編)
折田明子(メディア研究者)×川村真司(Whatever)×富永勇亮(Whatever)
自身の死後のデータの扱いにまつわるプラットフォーム「Digital Employment After Death(通称D.E.A.D.)」。有名人から亡くなった家族まで、技術的には“復活”が可能ないま、弔いのかたちはどう変わるのか。ソーシャルメディアや死者のプライバシーについて研究する折田明子氏をゲストに招き、Whateverの川村真司、富永勇亮と行った鼎談 後編。死後の権利について包括的に話した前編に続き、Whateverが実際に仕掛けたプロジェクトを中心に、新たな弔いのかたちについて語られた。
「復活の日」でWhateverが考えたこと
Whateverでは、2019年3月に放送されたNHK総合番組「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」において、タレント・出川哲朗氏の8年前に亡くなった母親をテクノロジーによって「復活」させるプロジェクトを手がけられていましたよね。Whateverとしては異色の企画だと思いました。
富永:そのとおりで、いつも僕たちは新しいタイプのものづくりで人を驚かせたり、ちょっとクスッと笑わせたり、感動させたりということをしていて。
企画からテクニカルアドバイザー、アートディレクションまでを担当されていますが、どのように進められたのでしょうか。
富永:実は番組づくり自体に2年の歳月をかけているんです。中でも最も時間がかかったのはキャスティングの部分で。亡くなった方とリアルタイムで会話をするというテーマで、タレントの方々が「どういう結果になるのかまったく想像がつかない」という理由で断られることもあり、ブッキングがとても難しかった。また、絶対に死者への冒涜につながらないことを念頭に置いていたので、テクノロジーの開発以上に慎重になる部分がありました。
もともとはNHK側から依頼されたテーマだったのでしょうか。
富永:具体的な依頼があったわけではなく、対話の中から生まれた企画です。NHKの服部竜馬さん、放送作家の竹村武司さんと僕で長らく議論していたのは、実際に「誰かを復活させよう」ということよりも、「この時代に何を考えるべきか」。その中で、いまのテクノロジーを使えば、ある程度デジタル上で死者を「復活」させることが可能じゃないかと。そこから「デジタルイタコ」をやってみるのはどうだろうと。
「デジタルイタコ」は興味深いキーワードですね。ちなみに出川さんのお母さんの場合は、どれぐらいのデータをを集めたんですか?
富永:実は、全然データがなかったんですよ。「これは無理じゃないか」と諦めそうになるくらいで。
川村:出川さんの場合、お母さんの写真が4枚ぐらいしか残っていなくて。喋っている映像も、テレビ番組に30秒ぐらい出ていた、というものをかき集めて。そこでデータには頼らず、ご家族にお話を聞いて、記憶に残っていた内容をベースにする方法に切り替えました。もっとデータがあれば、解像度も再現度も高められたとは思いますが。
それにしてはとてもリアルに感じられました。撮影はどのように?
川村:そもそも「台本通りに喋ってもらう」という構成は一切なくて。収録現場では、出川さんが対面する大型モニターの中にお母さんのCGモデルが表示されていて、隣のスタジオでモーションキャプチャースーツを着た役者がスタンバイし、リアルタイムで会話するシステムになっています。実はその役者は清水ミチコさんで。
NHK総合番組「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」
清水ミチコさん!
川村:清水さんに、事前にお母さんについての情報を大量にインプットして声真似していただきました。だから、ほとんどアドリブで対話できているんですよ。始まりと終わりの流れだけを決めて、会話が始まったら分岐し続けていくという。
清水さんは出川さんとプライベートでも懇意にしているので、話を合わせやすかったことや、声色を真似られる名女優ということからお願いしました。だからテクノロジカルな再現というよりは、かなり恣意的というか、個人的な記憶をベースにした「復活」なんです。
出川さんを含め、ご家族の反応はいかがでしたか?
川村:最初にお母さんのCGを作ってお見せした時は「全然似ていない」と言われてショックでした(笑)。そこから2ヶ月かけて精度を上げていったら、「完全に、母が復活しました」と喜んでいただいて。そこで僕らの中でも「これでいけそうだね」という雰囲気が出てきて。
ご家族の判断がジャッジの肝になるということですね。
川村:僕たちのゴールは、ご家族に満足していただくことだったんです。復活を望んでいた出川さんとご家族が、なかばセラピー的な「復活」を経て、なんらかの心の救済というか癒しが得られていれば、やる価値があったんじゃないかと。そこは、他の「復活」コンテンツとは異なるところかもしれません。
折田:出川さんの『復活の日』は、イタコであり、カウンセリングやセラピーに近いものですよね。お母さんという像を借りて、かつてのお母さんのように話してもらって、「お母さんならこう言うはずだ」とか、「お母さんがかつて言っていたことだ」というポイントを押さえながら、出川さんが自分の中で記憶を昇華していくという。
まさにセラピーですね。
折田:富永さんと川村さんが「中に人が入ったほうがいい」とジャッジされたことが重要だったと思います。出川さん自身は、お父さんとの関係で葛藤があるようにお話されていましたが、それを「お母さん」の姿をした「誰か」が話してくれることで、出川さんが自身で解決をしていく。そういう意味で「グリーフケア」というか、悲しみと向き合う、昇華していくプロセスにおいて有意義な取り組みだと思います。
グリーフケアは諸刃の剣である
その一方で、こうした遺族との再会においてはリスクもあるのではないでしょうか。
折田:人によっては、完全に無防備な状態になりやすいため、誰かに恣意的にコントロールされてしまう危険があります。ですから、臨床心理士など専門家のの監修が必要になるでしょうね。
最近では様々な「復活」のサービスが始まっています。たとえば韓国では、幼くして亡くなった娘と母親がVRで再会するというコンテンツも発表されています。
折田:はい。そのVRコンテンツでは、亡くなった娘に、「会いたかった」「私のこと忘れなかった?」と架空のセリフを言わせていました。あれはもう、本当に諸刃の剣だと思いました。お母さんは一時的に救われたかもしれないけれど、もしかしたらその後病んでしまったかもしれない。いま実在しない家族をあたかも一緒に過ごしてきたかのように再生してしまうと、「亡くなったことを受け入れられなくなる」という危険性があります。
韓国MBCが制作した、亡くなった娘とVRで出会うドキュメンタリー番組
川村:そこは僕たちもすごく気を付けていたところです。作り手側の恣意性が入らないことは大前提ですが、そうなると会話が成り立たない。そのため会話の条件は、きちんとしたファクトに基づくこと、そして宗教的にならないこと、「あの世」や「雲の上から」など、過ごしていなかった時間を感じさせることはNGにしました。
作り手の意図する方向に誘導しないようにすると。
川村:いまだと、VRで再現すれば完全に没入してしまって、ハマり込んでしまうこともありえますよね。「復活の日」で出川さんのお母さんをディスプレイ投影にしたのも、ある意味「墓石」のようなもので、「本当はいないんだ」と冷静になれる設計のひとつでもあります。
折田:やっぱりそうだったんですね。拝見していても、ディスプレイがある種の結界のようで、「越えてはいけない一線」があると思いました。しかも会話の内容が、出川さんのお母さんの過去に基づく話のみだった。そこはよく踏みとどまっていた感じがします。
富永:「彼岸」と「此岸」はすごく意識しました。日本の場合、「お彼岸」などで感覚的に死者との交わる時間を設けているんですよね。けれど、それが一時のものであることもすごく重要視していて。だからこれも『復活の日』という、一日限定の企画にしたんです。
継続的なものではないと。
富永:あくまでも出川さんとお母さんが出会うのはこの瞬間だけ、このスクリーンを介してだけ、だと。最後のシーンでは出川さんがお母さんと手を合わせるのですが、お母さんは、消えてなくなるのではなくて、どこかへ戻っていくという。そこもすごく意識したポイントです。
その絶妙なラインのデザインが重要ですよね。「死」というタブーに触れるものだからこそ、「儀式性」を重要視していくことが、デジタルの世界でもいま起きている話なのかなと。
富永:おっしゃるとおりですね。デザインというと軽く見られがちですが、そのデザインの中に、思想や触れてはいけないものに、どこまで境界線を引きながら作るかがすごく重要だと思います。
『D.E.A.D.』にもそのデザインは意識しましたか?
富永:『D.E.A.D.』を作ったのもまさにそういう判断のところで。他の「復活」コンテンツでは、僕たちが地雷だと思って避けたところに踏み込んでいくと、世間から嫌悪の声が上がるという例をいくつも見ました。だから僕たちもプロジェクトを作る上で、「どんなことに人が嫌悪感を抱くのか」を理解しないといけないと思って。『D.E.A.D.』で得られた結果を通して、次の場所に進みたいと考えているんです。そこでまずアンケートを取ってみて、それから社会基盤になるようなものが作りたいなと。
始まるデジタル終活、人は死者に何を求めるのか
いまWhateverでは、「追悼」における新たな儀式形態を提供することと、「自分の死後データをどう扱うか」を問いていくという2軸がありますよね。その両方に関わるところで、「デジタル終活」についてはどう考えられますか。
折田:デジタル終活はリアルに始まっていますよね。コンピュータ内にパスワードをメモしておいて、普段はテープなどで隠しておくとか。『スマホの中身も遺品です』という著作を出されたライターの古田雄介さんによると、いままさに「終活コンサル」が増えていて。アカウント整理を誰に任せるか、FacebookやInstagramの「追悼モード」やGoogleのデータを誰に譲渡するか、または消すかなどが設定できるようになっています。
川村:これからは「終活」を取り入れるサービスが注目されそうですね。
折田:まだ死後のデータの取り扱いまで対応していないサービスがほとんどなので、遺族がログインして報告したり、アカウントを消去したりしているのが現状です。
死者のデータやデジタル弔いに関していうと、残された側の想像力をいかに喚起させるかという点がありますよね。あるキーワードひとつで故人の記憶が蘇ることもある。そうした想像を喚起させてくれる装置としてデータが存在していく状況は今後も続くかと思います。
川村:それはテクノロジー云々の話から突然真理にたどり着いてしまったかもしれないですね。人の思いや記憶はそれぞれのものなので、再現し過ぎないで、想像に委ねる余地を残しておくほうが、死者を再現する表現では重要なのかもしれない。
富永:実際『D.E.A.D.』でアンケートを取ってみても、解像度が上がれば上がるほど嫌悪感を示す人が多かったんです。テキストや音声だけなら許容できても、映像になると一気に嫌だという意見が増えるんです。また、「過去を語る」ことはある種弔いの一種なので、多くの人は受け入れていく気がするんですね。一方で故人のAIがなにか新しいものを作ったり語ったりするという領域に踏み込むと、故人の領域を侵犯してしまう。そこがすごく大きな壁になると思います。
川村:それが許される表現っていうものが、何か思いつけるのかどうかですよね。本当の意味で。
折田:そう考えると、手塚治虫の新作「ぱいどん」が好意的に受け入れられている状況を見ると、「コンテンツ」に特化するのであればいいのかもしれないですね。パーソナリティーの部分まで再現しようとするところに拒否感が出てくるのかなと。それこそ「彼岸越え」じゃないか、と。
富永:「ドラえもん」の新作だって作り続けられているわけですしね。
川村:「創作物だから」という割り切りなのかな。ただ今度はクオリティに対するクエスチョンが常に出てくる。手塚治虫ジェネレーターも、それを手塚治虫だと感じる人、感じない人はそれぞれいると思うんです。何をもってそれを「良し」とするのか、それを誰が判断するのかと。今日はお話を聞いて、「人は一人で生きてるんじゃない」と改めて実感しました。当たり前のことなんですけど。「復活」ばかりを考えると、その対象だけを意識してしまいますが、人間の活動って他者がいて、そのインタラクションが「データ」として残るんですよね。そこがすごくリンクしているんだなっていうのは改めて気づかされました。とても面白かったです。
富永:『D.E.A.D.』は一過性の作品ではなくて、こういう機会を通して、またどんどん考える領域が増えていくのが面白いというか、やりがいのあるところです。
折田:死に関することは、ものすごく人の心が弱くなるところでもあるんですよね。そこはであらねばならないのですが、同時に今や大きく「弔い」が変わりつつもある過渡期だと思っています。新しいかたちを作っていければな、と改めて思いました。今日は本当にありがとうございました。
川村・富永:ありがとうございました。
CREDIT
- TEXT BY AKIKO SAITO
- 宮城県出身。図書館司書を志していたが、“これからはインターネットが来る”と神の啓示を受けて上京。青山ブックセンター六本木店書店員などを経て現在フリーランスのライター/エディター。編著『Beyond Interaction[改訂第2版] -クリエイティブ・コーディングのためのopenFrameworks実践ガイド』 https://note.mu/akiko_saito