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デジタルアーカイブのいまと未来

2016.10.11

文化財アーカイブの欲望と使命(前編) 西野嘉章×宇川直宏

西野嘉章(東京大学総合研究博物館)×宇川直宏(DOMMUNE)

かつてあった音楽も、映像も、ダンスも、インターネットも、デジタルに絡む無形のカルチャーのほとんどは、常にメディアの寿命とともに翻弄されてきた。いまこの問題は、世界各所で議論され、その解決の糸口を探らんとする真っ只中にある。

これからのデジタルアーカイブにはどんな方法があるのか、何を残し、何を紡いでいくべきなのか、また、文化を大きな歴史の時間軸にゆだねる意義とは何かをリサーチし、さまざまな実践者たちと対話を重ねていく連載「デジタルアーカイブのいまと未来」が始動した。

東京駅から正面にあるJPタワー商業施設「KITTE」内に位置する「インターメディアテク」は、東京大学が明治10年の創学から蓄積を重ねてきた学術文化財が常設されたミュージアムだ。一歩足を踏み入れてみれば、その展示空間の異質さとダイナミックさに目を見張ることだろう。

一般的に想像されるような、カテゴリごとに学術資料を「整列」させた博物館とは大きく異なり、すべての展示物は既存の枠組みや文脈を解体して、縦横無尽に配されている。

巨大なクジラの骨、コウモリの標本、古い船の建築図面、アフリカの先住民族の木造品……。これらの収蔵品がひしめき合う館内には、生物学、建築学、民俗学といった学問分野における本来の研究価値を差し置いてでも、それらのモノが発する抗いがたい魅力と説得力を内包している。

JPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」

インターメディアテク2階常設展示内木彫人頭骨およびウマ骨格標本
空間・展示デザイン©UMUT works 2013-

この異色のミュージアムをつくりあげたのは、東京大学総合研究博物館 館長の西野嘉章氏だ。アーカイブの未来をつくる担い手として、アカデミア領域に属しながら、彼ほどの独創性とスケールを持ち合わせた人物はそうそういないであろう。

一方、カルチャー領域において、最前線のアーカイブを更新し続ける人物がいる。2010年より、日本初のUSTREAMライブストリーミングスタジオ件、チャンネル「DOMMUNE」(現在のプラットフォームはYOUTUBE)を主催する“現在美術家”、宇川直宏氏だ。サブカルチャーからハイカルチャーまで幅広く文化人やアーティストを取り上げ、現在進行系で「いま」を発信し続けている。

渋谷にあるDOMMUNEスタジオには、ほぼ毎日、様々な文化における重鎮を招いたトークショーや、世界中のDJ、アーティストによるLIVEパフォーマンスを配信する。連日このDOMMUNEには、膨大な「現在」という無形の文化財がアーカイブされているのだ。

お互いまったく異なる立場と手法で文化財を収集し、後世に向けた人類の遺産というべきアーカイブを残し続ける両者。ふたりの「SCOPE」からは、どんな未来が見えてくるだろうか?

デジタル情報に欠落する「アウラ」の存在

宇川直宏 NAHIRO UKAWA
1968年生まれ。現在美術家。映像作家、グラフィックデザイナー、VJ、文筆家、京都造形芸術大学教授など、極めて多岐にわたる領域に活動を広げる。2010年に個人で開局したライヴストリーミング兼チャンネル「DOMMUNE」では、世界中のDJ、クリエイターから熱狂的な支持を受け続けている。2012年より文化庁メディア芸術祭審査員(3年間)、2015年高松メディアアート祭ゼネラル·ディレクター、同年アルスエレクトロニカのサウンドアート部門審査員も務める。

宇川:ぼくがDOMMUNEというチャンネルで目的としていることは、同じ時代を共に生きる、愛すべき表現者の生の声、生の姿を文化遺産として未来に残すことなんです。アーティストが自由奔放にパフォーマンスする、その「ハイフィデリティなポートレイト」を平日毎日撮影し、配信し、そして収録しています。アーカイブという行為は、それぞれ被写体を中心に世界を見回せる装置を作り、未来へ継承することでもあります。そういった意味では、西野さんは非常にシンパシーを感じるお仕事をされていると思っています。 

西野嘉章 YOSHIAKI NISHINO
1952年生まれ。東京大学人文科学研究科博士課程中退。博士(文学)。現在、東京大学総合研究博物館館長·教授。ミュージアム·テクノロジー(MT)とインターメディアテク(IMT)の両研究部門を立ち上げ、「アート·アンド·サイエンス」をテーマに、モバイルミュージアム·プロジェクト、複合教育プログラム、東アジア学術標本ネットワークなどを推進している。

西野:ただし、デジタル情報とモノの違いがあるという意味で、ぼくたちの立ち位置はかなり対照的ですよね。ぼくは基本的にモノの収集と活用を専門としていることもあって、モノが秘めている情報量の大きさを日々痛感させられています。現代のデジタル技術は、まだ、その全量をカバーしきれていません。

しかし、志は似ているように思います。この世界で起こっている事象は、あっという間に過去に飲み込まれてしまい、その流れのなかで消えてゆくわけです。その流れを押しとどめようとする試み。そういう点では、どこかで共通しているのかもしれません。

現代のテクノロジーは、たしかに、すごい。ですから、デジタル技術を使ってアーカイブ化が進められるのなら、やらない手はない。こうした考えにも一理あります。しかし、実際のところ、一日前、一週間前に起こったことを、丸ごと情報化し、データとして保存できるのかといえば、そうもいかない。デジタル化できる事柄は、その全体のなかのごく一部に過ぎない。作業主体が関心をもっている部分だけなのです。できごとの総体からしたら、ごくわずかなものに過ぎないのです。

今日のネット社会を生きるなかで、ぼくらは膨大な情報をやり取りしているわけですが、そのなかから必要な情報を取り出し、アーカイブ化する作業、つまり、いつでも使えるようなかたちで後に残す作業は、大海から一滴の水をすくい上げ、それを汎用性のある入れ物に収めて残してゆくようなもので、机上の上でできなくはないにしても、実際は容易でない。

しかし、いま眼の前で起こっている出来事を、記録し、将来に届けたいという、宇川さんの志には敬意を表したいと思います。

宇川:ぼくがDOMMUNEを開始した2010年はソーシャルメディアの夜明けでした。SNS以降、おっしゃる通り、世の中のあらゆる情報はフローとして流れていき、またストックされたログを辿るといっても、そもそもログ自体が計り知れない情報量のビッグデータで人々の生活履歴、行動データなどの痕跡は、サイバースペースの中に茶渋のようにこびりついています。

例えば、ネット以前だとそもそも、それぞれ記録メディアが高額だし、ライフログ自体、無意識には残らないので、記念日や、特別な体験など、ログを残す特権的な立場に立った存在が切り取った情報は、ある程度「ろ過」されている状態で現存していると思います。しかし現在は、行動の断片そのものが、個人情報として残っていく。ぼくのやっていることは、アーティストの生きた証、その膨大なログに、蛍光ピンクでマーキングして、独自視点で注目を呼びかけているのです。

ぼくのテーマに「アウラのありか」の探索があります。西野さんのおっしゃる通り、モノが発するエネルギーと説得力に、デジタル情報は勝てるのかどうか? それは、モノと対峙したときの一回性のアウラ時空体験がデジタルにはないからといえるでしょう。一方で、ライブストリーミングが取り扱うものは、一秒先には過去になってしまう儚くも強烈な「いま·ここ」の提示なんです。それゆえぼくは、ナマであること、フレッシュであることの掛け替えのなさを常に探求し続けています。

だからこそ、ライヴ空間を設けて開放しているわけです。ここには、スタジオというアーキテクチャに解き放たれた身体してのアウラが存在している。常にハプニングが起こるこの生々しいスタジオを第一の現場とすると、それを垣間見ているそれぞれのストリーミング視聴覚環境が第二の現場、そして第三の現場が、そのストリーミングを共有している者たちが寄り合うサイバースペース横丁(笑)。つまりソーシャルメディアのタイムラインです。

DOMMUNEはそうしたた3つのレイヤーによって「現在」が構成されていて、その遍在する「いま·ここ」の情報自体をアーカイブとして残そうという発想に基づいています。その分、モノというリアリティが介在しない構造になっていることは事実ですが、スタジオという身体性を伴った空間があります。

今日ぼくがインターメディアテクを訪れて感動したのは、物質が持っている有無を言わさぬ説得力とエネルギーです。さっき館内で見たタカアシガニひとつとっても、フォルムはそのまま残っていますが、身も内臓も内側には存在しない状態ですよね。にも関わらず、タカアシガニが生きた時間を、殻と向かい合うことで感じることができる。そこには強いアウラがある。デジタルファイルの情報と物質の放つ存在感では、歴史を体感する場においても時間構造として、まるっきり違うものだということは痛感しました。

インターメディアテク2階常設展示内ミンククジラ骨格標本
インターメディアテク・ホワイエ展示内マチカネワニ交連骨格標本
現代は最も「非生産的な時代」?

西野:人類史のなかでも、現代はかなり特殊な時代です。SNSにこれほどまでに時間や労力をそそぎ込む、そうした時代ですからね。しかし、後にこの時代を振り返ったら、なにも残っていないじゃないか、ということにもなりかねません。SNSは、ユーザーがそれをうたかたのものとしてしか考えていない。エフェメラルなものだから、気楽に利用できるという側面をもっているわけですね。だから、本気でそれを残そうとする人もいない。ビッグデータとして統計数値に還元されてしまうわけです。そういう意味で、人類史上、もっとも「非生産的な時代」と言えなくもない。そうならないようにしなくてはいけないわけです。

SNSのようなものがなかった時代は、物質あるモノをつくる時間があった。それに対し、現代はどうなのでしょう。「アーカイブ化」という大義名分の下で、いろいろなものがデータ蓄積なされているわけですが、結果として、無意味な情報がいたずらに膨れ上がっているように見えなくもない。なにが、ぼくら人間にとって意味のあるものなのか、選択をせず、全的に残そうとする挑戦が、いずれ破産するだろうことは眼に見えています。

それよりなにより、デジタルデータが突然消えてしまうというおそれはないのか?どんなにセイフティを謳っても、100パーセントの保証などありえないですからね。だから、ぼくはモノにこだわるのです。デジタル·データをあまり信用していませんからね。

また、「現実をデジタル技術で包括的に記録する」という思想には、「美学」というものが、根本的に欠落しているのではないか、そのように思います。たとえば、音楽のライブ演奏を収録することにしましょう。もちろん、最高のデジタル技術を駆使してね。どのような技術を使っても、記録されたデータのなかには、こぼれ落ちてしまうものがある。記録データは所詮シミュラクルに過ぎないわけで、ライブに立ち会うという経験とは別物です。

ライブをやったとき、「現場にいた」という経験なり、記憶には、デジタル化できない情報がつまっている。それを「ノイズ」の一言で片付けるのは簡単ですが、人間にとって意味のあるデータはその「ノイズ」のなかに詰まっているわけです。

世を挙げてアーカイブ、アーカイブという時代になっていますが、ともすれば空疎な情報の集積体となり、人間がそれを使うのでなく、人間がそれに縛られることになる、という悲喜劇的な事態が現実のものになりつつあるようにも見えるのです。

インターメディアテク2階常設展示内老田野鳥館旧蔵哺乳類剥製標本

宇川:ログに残っている情報はゲームのプロセスそのものではなく、結果というわけですね。生物学のカテゴリにおいて展示されている生命の抜け殻も自然淘汰の中で残ったものだと考えると、進化のゲームの結果を目の前で体感できるのが、博物館の魅力のひとつなのかもしれませんね。

デジタル環境における「ノイズ」の存在感

西野:「生命の進化」というのは、難しい問題ですね。いうまでもないことですが、この世界には現存している生物と絶滅してしまった生物のふたつがある。環境適応できずに滅びてしまったものを絶滅種というわけですが、はたして生き残った現生種が絶滅種に対して、本当に生物的に優位だったのかどうか、これはわかりません。

そのアナロジーを借りて言うなら、ある時代に作成されたアナログデータをデジタルに転移させようとしたとき、100パーセントの転移は可能なのか、という問題です。デジタル化してはみたけれども、なにか違うなという感覚が拭えないという経験、ありませんか。ITの世界も、生命を取り巻く外部環境とおなじく、ドラスティックな環境変化を経験しつつある。思えば、フロッピーなど、いまや立派な絶滅種になっていますよね。

宇川:圧縮技術の問題もありますね。アナログでは存在していた周波数特性やダイナミックレンジのような音情報が、MP3への変換でバッサリ情報として切り落とされていたり。いま流行りの旨味成分が極端に薄められている。しかしヴァイナルやCDといったメディアからも解放されることで、逆にハイレゾ音源が好事家の間で流行ったりしています。そのようにぼくらが残しているのは音楽や対話という、常に無形のものです。

それらは、ガワがないエネルギーそのものであり、物質と同じく人を感動させることはできますが、触れることができないものです。 

インターメディアテク3階常設展示内鳥類剥製標本

西野デジタル全盛の時代において、忘れられがちなのは「ノイズ」の存在です。ぼくがデジタル録音に対して違和感を感じるのは、ノイズを排除してしまうことですね。

インターメディアテクでは月に一度、古い蓄音機を使ったレコード鑑賞会や、同じペースで古い映像の上映会を行っています。昭和30年代のドキュメンタリー映像を見ると、今日のデジタル映像とは全く異質の体験のような気がします。そこには、アナログで収録したときの、画像と音声の「ノイズ」が含まれているからです。「ノイズ」を伴う、なんとなくザラついた感覚というものは、デジタルでの収録では失せてしまうように思います。

しかし、どうでしょうか、人間というものは、五感のすべてを使って知覚する生き物ですよね。

宇川:おっしゃる通りです。ライブストリーミングで重要なのは、予定調和ではなく、どのように「偶発的事故」をエンターテインさせていくか、ということなんです。編集できない時間軸を扱っている所以でもありますが、いつもそうした「事故=ハプニング」にこそ可能性があると感じるんです。それはノイズと言い換えることもできるかもしれない。

デジタルの世界はノイズが入り込みにくくなっているし、特にそこに「歴史」という文脈が含まれていない場合、エネルギーを瞬間冷凍すると謳いながらも、魂の抜けた世界にも陥りがちです。モノが持っている説得力から学べる、アウラを浮上させる最重要なヒントは、こうした「ハプニング」や「ノイズ」に注視することかもしれませんね

 

→後編はこちら
文化財アーカイブの欲望と使命(後編)西野嘉章×宇川直宏


INTERVIEW & EDIT BY ARINA TSUKADA
 

 

CREDIT

Estuko
TEXT BY ETSUKO ICHIHARA
アーティスト、妄想監督。1988年、愛知県生まれ。早稲田大学文化構想学部表象メディア論系卒業。日本的な文化・習慣・信仰を独自の観点で読み解き、テクノロジーを用いて新しい切り口を示す作品を制作する。アートの文脈を知らない人も広く楽しめる作品性から、国内の新聞・テレビ・Web媒体、海外雑誌等、多様なメディアに取り上げられている。主な作品に、大根が艶かしく喘ぐデバイス《セクハラ・インターフェース》、虚構の美女と触れ合えるシステム《妄想と現実を代替するシステムSRxSI》、家庭用ロボットに死者の痕跡を宿らせ49日間共生できる《デジタルシャーマン・プロジェクト》などがある。 http://etsukoichihara.tumblr.com/
Gotthingham
PHOTO BY GOTTHINGHAM
写真家。様々な領域において、キービジュアルなどの写真撮影・映像演出を手掛ける。近年は、国際的な研究開発機関、アートセンター、企業、地方自治体などとのコラボラティブ/コミッションワークを中心に作品制作を行うほか、出来事の構造探求を起点に、「パラノーマル」と呼ぶ手法を用いたビジュアル・ディレクションやアーティスティック・リサーチのアサインも多数行う。2009 年~2012 年、アーカスプロジェクト実行委員会(主催:茨城県)にて、国際アーティスト・イン・レジデンスや地域計計画事業の企画・運営・プロモーション制作に従事する。ロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーション修士準備課程修了(写真)。 http://gottingham.com/

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