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デジタルアーカイブのいまと未来
2016.10.11
文化財アーカイブの欲望と使命(後編) 西野嘉章×宇川直宏
西野嘉章(東京大学総合研究博物館)×宇川直宏(DOMMUNE)
かつてあった音楽も、映像も、ダンスも、インターネットも、デジタルに絡む無形のカルチャーのほとんどは、常にメディアの寿命とともに翻弄されてきた。いまこの問題は、世界各所で議論され、その解決の糸口を探らんとする真っ只中にある。
これからのデジタルアーカイブにはどんな方法があるのか、何を残し、何を紡いでいくべきなのか、また、文化を大きな歴史の時間軸にゆだねる意義とは何かをリサーチし、さまざまな実践者たちと対話を重ねていく連載「デジタルアーカイブのいまと未来」が始動した。
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文化財アーカイブの欲望と使命(前編)西野嘉章×宇川直宏
主観でつくる、実験のためのミュージアム
西野:博物館というのは文化や自然を「見せる」装置だと思います。王侯貴族が、「世界中の魅力的な文化財や標本を集めて、この世界を手の中に掌握したい」という欲望から生まれたわけですからね。まず、自分がどういうモノを欲しているかを知らなければ、集めることはできない。
すなわち、自分の世界観をもっていなくてはいけない。次に、その世界観を空間化しなくてはならない。つまり、集めたモノを布置する場所を用意しなくてはならない。そこには、自ず自分の主観が、個人的な世界観が投影されるわけで、だから面白いのです。
ところが、近代のミュージアムは、科学性、客観性の名のもとに、モノの開陳スペースをニュートラルなものにしてしまった。言い換えれば、科学偏重主義に陥ってしまって、個人に根ざす主観性を投影できる場でなくなってしまったんです。それはまた、人間の欲望を狭い領域へ押し込めてしまったように感じます。
科学は、主観に基づく「バイアス」を嫌います。正確であること、客観的であることを、第一義とみなすわけです。20世紀型のミュージアムは、そうした思想に依拠しています。
しかし、17~18世紀の王侯貴族の「博物場」はそうでなかった。そこに集められたモノは、個人のものも、集団のものも、「バイアス」のかかったもの、特定の世界観に基づく趣味嗜好からもたらされたものだったからです。これからの時代は、どんなデータも、技術論上は保存できるようになったわけですから、ユニヴァーサルな指向でなく、個人の欲望の充足を目指す特化的な方向を目指すものにならなくてはいけない。そこにこそ、未来を紡ぐ希望があるのではないかと思っています。
20世紀に世界標準化された「科学信仰」や「客観性崇拝」を乗り越えないと、21世紀は面白いものにならない、と思うのです。当然、反対意見はあるだろうと思いますが。
宇川:素晴らしい!ぼくはこのインターメディアテクの展示が「実験展示」である、というウェブサイトに記載された言葉にすごく惹かれたんです。アーカイブを「収集し、管理する」というお決まりの博物館が多い中で、「実験」という命題を掲げられている。そこには、展示をオーガナイズする人の意思と主観で世界をつくりだそうとする意志を感じます。
そもそも、「博物学」という研究領域において、歴史的に重要なテキストはアリストテレスの『動物誌』と、プリニウスの『博物誌』ですよね。特に後者の『博物誌』は、生物、植物、鉱物に限らず、怪獣、幻獣、狼人間などの非科学的な領域も研究されています。そうした意味で、文化史をたどることは、人間というノイズの存在を生物史のなかに組み込む運動なのかなって思ったんです。宗教学も生物学もジャンルを超えて結び付いている。
西野:そうですね。現代のミュージアムは想像力を喚起しません。なぜなら、知の体系をきれいに整理し過ぎているからです。そもそも、この、ぼくらの世界は混沌としているのに。展示物にはキャプションがあり、そこにはコレコレこういうものです、という説明がついている。理解の仕方まで説かれているので、それ以上、想像力を膨らませる余地もない。行き過ぎた主知主義による「白痴化」が進んでいるのです。
そうした現状に対する反省もあって、インターメディアテクでは、「なんでこれとこれがとなりに並んでいるんだろう?」と思わせる、「謎かけ」をあちこちに埋め込むことにしました。不用意に情報を与えない。モノとモノのあいだに空白を作る。その空白を、あなた自身の想像力で埋めてみてください、という問いかけです。
宇川:まさにブリコラージュ大喜利ですね(笑)。キリスト像の隣に、アフリカ部族の木彫りの彫刻があったり。インターメディアテクでは文化に対する「野生の思考」が浮かび上がっていると思いました。
また博物学は、当然のことながら物質優位の世界ですよね。現物の唯一無二性。しかしその絶対性が強すぎて、例えば、旧植民地から奪ってきたものが多いとされる大英博物館は、戦利品の宝庫とも取れますが、モノたちの出処は展示に対してどんな意味を持つのでしょうか?
西野:学術研究を通じてもたらされたモノには、「いつ、どこで、だれが採集したものか」という、戸籍情報があります。学術標本の面白いところはそこにあります。アートワークでは素材の来歴が問われることはありません。ですが、サイエンスはそれを記述し、残しているのです。ここにアートワークとサイエンスの大きな違いがあります。アートなのか、サイエンスなのか、その分岐点と言ってもよいと思います。
宇川:アートとサイエンスの大きな分岐点、なるほど。面白いですね。例えば、人体の不思議展でも話題になった、プラスティネーション人体標本などにまつわる学術展示と見世物のボーダーについてもぼくは興味があります。
学術標本をアートとして再構築する
西野:ぼくは、アートワークの研究も好きですが、そのアートワークを製作したアーティストの表現戦略にも関心があります。アーティストは、自分の作品をどう展示するか。その答えを、展示に反映させたいと考えるからです。アンディ・ウォーホルは、自分の作品をどう扱うだろう、と考えるのです。たとえば、彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシは、卵のかたちをした人頭を、磨き上げた金属円盤の上に乗せて眺めています。そのひそみに倣って、象鳥の大きな卵を金属円盤の上に立たせて展示したことがあります。もしブランクーシの手に象鳥の卵を委ねたら、こんな挑戦をするに違いない、と勝手に考えるわけです。
ほかにも現在開催している『雲の伯爵――富士山と向き合う阿部正直』という企画展では、アート界ではまったく無名だった伯爵·阿部正直という人物を希代の写真家としてピックアップしています。1920年代、写真家のアルフレッド·スティーグリッツはかたちのない現象を捕まえる試みとして雲の写真を撮影し続けていました。一方、この阿部さんという方はアマチュアの「雲学者」として、純粋なモチベーションで雲写真を記録し続けていました。
こうした二人の写真を並べてみると、まったくかけ離れたところに存在していた両者が近接してくるようにも思える。コレクションという磁場には、不思議なつながりが吸い寄せられてくるんです。
宇川:歴史の中に点在している現象を線としてつないでいく方法論は、フェスのオーガナイズにも似ている気がしますね。ぼく自身もキュレーションに携わることが多く、昨年開催した「高松メディアアート祭」では、ヴィヴィアン·マイヤーという無名のアマチュア写真家を「ライフログを残し続けたメディアアーティスト」として紹介しました。彼女は生前一枚の写真も発表せぬまま亡くなった孤独な乳母で、死後にその倉庫から発見されたネガをオークションで落札した青年のはたらきによってSNSで身元をつきとめ、爆発的な注目を浴びたアーティストです。この物語は、インターネットが生んだ神話だと捉えています。
ぼくは彼女のように、美術の歴史には決して組み込めないような異物野存在とも常に対峙し続けたいと思っています。同様に、さまざまな歴史軸を横断して、自分の世界をつくりあげる西野さんのアプローチはどのように構築されてきたのでしょうか?
西野:一般のミュージアムは、どうしても保守的な姿勢に終始しがちですよね。ですから、こうした挑戦はなかなかできないだろうと思います。ぼくの場合は、博物館在職23年ということもあって、いくらか自由がきくようになったというわけです。
ただ、インターメディアテクの展示品の多くは、ゴミ箱に捨てられていたもの、あるいは捨てられる運命にあったものです。戸籍情報が失われているという理由だけで、学術研究のリソースとして用をなさないとみなされるんです。しかし、ゴミの山のなかに埋もれている、過去から託されたメッセージを読み説く方が、スリリングで面白い。
だいぶ前のことになりますが、そうした、一見価値がなさそうに見える、古いモノばかりを集めてみせる展示を、銀座のエルメスのスペースに持ち込んだことがあります。ホコリまみれの爬虫類の標本と、エルメスの宝飾品を並べてみせて、「あなたなら、どちらをとりますか?」と鑑賞者に問いかけたのです。
エルメスのプロダクトは、たしかに高価ではあっても、お金があれば同じものは買えるわけですよね。ですが、明治初めの東京大学理学部動物学教室で、お雇い外国人教師の指導を仰ぎながら製作された剥製は、天下に一品しかない。
それを考えると、ひとことで「価値」といっても、簡単ではない。歴史的価値、学術的価値、商品的価値、というように。モノの「価値」とはいかなるものか、それを観る人に問いかけたかったのです。かなり挑戦的な展示でしたが、そこは、やはりエルメス。スーパーブランドが時代の先端であり続けられる所以は、こうした「価値」の本質に踏み込むことができる、文化的成熟度というか、懐の広さにあるのだと思いました。
知識を刈り取る、文化のホットスポット
宇川:「アーカイブ」とは、ものごとを「記録·保存」すると同時に、「活用」することまでを含んでいると思います。例えばジョナス·メカスはアンソロジーフィルム·アーカイヴスを自ら運営し、90歳になる今も、無数の実験映像を修復、保管、上映し続けています。インターメディアテクもまた、さまざまな文化財が無料で開放されていますが、ここには「活用」が機能していると強く思います。僕らもDOMMUNEを無料でライブストリーミングしています。なぜなら、広く拡散されないと意味がないからです。
岡本太郎が生前になぜ作品を売らなかったのかというと、「作品というものは、コレクターに買われたら死蔵される」と彼が考えていたからでした。それでは、作品が「生きている」瞬間とは何でしょうか? 人々の視線、まなざしを浴びている状態こそが、作品が生きているとも考えられますよね。西野さんは、骨や剥製などの抜け殻に二度目の生を与えていることをされている。そのモノが貴重かどうかというよりは、それを活用することの重要性を強く意識されているのだと感じます。
西野:その通りだと思います。ただ、「アーカイブ」という言葉が、いまのぼくの仕事に触れるものなのかどうか、それはわかりません。「アーカイブ」には、公文書をはじめとした文章、記号、テキストの保存という意味があります。しかし、最近では、情報もモノも含む、広い意味での保存·活用という意味で使われるようになっていますよね。その意味では、ぼくの仕事も、やはりひとつの「アーカイブ」化事業と言えるのかもしれません。
ただし、自分の「アーカイブ」化事業が、ネット上で拡散することを無条件で認めるものでもありません。現在のネット社会では、展示品でも収蔵品でも、何でも撮影オーケーにして、ネット上に乗せさせろと言う人が多い。ですが、ぼくはとりあえず、ダメだと言い続けています。
なぜって? 情報は簡単に陳腐化するからです。熱しやすく冷めやすい。これは日本人の気質なのかもしれませんが、SNSを通じて画像が拡散されるとどうなるか。数ヶ月は話題になるかもしれません。ですが、写真を見ると、見たいという欲求は解消してしまうものです。
インターメディアテクは、「あの場に行かないと絶対に体験できない」。そのポリシーを大切にしています。なんでも記号消費できる時代に、あえて見せない。門戸を狭める。「隠す」というアプローチが、最も高度な見せ方となるのです。
見せないようにしながら、見せる。いたずらに説明しない。自分で歩いて、考え、自ら答えを見つけ出すプロセスを鑑賞者に課す。それは、広い草原で狩りをするように仕向けるようなものかもしれません。「自分自身で、頑張って知識を刈り取りなさい」と伝え、学術の楽しみに誘いたいんです。
ネット時代に消費されない、現代の文化戦略
宇川:ひとつの文化戦略として、短絡的に切り取ったイメージを拡散することを許さないというお話は非常に共感します。しかし、たとえばマドンナはYouTube登場以降、ワールドツアーで世界各国の観客がスマホなどで撮影したオーディエンスショットをYouTubeにアップすることを許可し、動員記録を更新しました。有料のライブの無料コンテンツがネット上にうごめいたことで、神秘性は薄れましたが、そのことが動員に結びついている。このミュージアムは常設で、しかも無料で開放されていますから、また戦略は違うと思いますが。
また、インターネット登場以降はフリーミアム文化を受け手も理解しているから、タダで見られるものに、あえて付加価値をつけていく課金手法がまかり通っていますよね。本当に価値のあるものこそがタダになっていくのだろう、と受け手が気付いたのは、ネット以降の変化なのかもしれません。
西野:フリーにすると、みんなタダだと言って、軽い気持ちでのぞいてみたりする。するとその場がホットスポットとなり、ある種の磁場を形成する。そこにビジネスチャンスが生まれるわけです。入場無料にしてホットスポットを作り、人々の集中を生み出す。これは、高度な文化経済学です。
宇川:そこに人が集まってエネルギー磁場が拡張されていくという効果がありますよね。ニコ生もいまこそ課金システムがありますが、LINE LIVEやAbemaTVは完全にフリーで良質なコンテンツを提供しています。両プラットフォームが開局された今年は、ストリーミング·リア充元年だと捉えていますが(笑)、今後、課金システムがあるサービスは、かなりコアなコンテンツを提供しない限り、淘汰されていくことになる可能性があります。
西野:文化経済学において、フリーというのは、すごく強い経営戦略なんです。100円の入館料で、100万円集めるにはどうしたらよいか、と考えるのでなく、まったく別な角度からバランスシートを組み立てるという発想です。
宇川:ぼくらのDOMMUNEも、日々、配信時間5時間でおよそ1万人が見ているけれど、もし視聴にお金を取っていたらメディアとしての媒体価値が薄れていきますね。
西野:海外の文化施設や大学博物館の経営、運営をリサーチして、試行錯誤しながら現在のかたちに行き着いた、多様な経験値の凝縮したものが、いまのぼくらなのです。
傍目からすると、ぼくのやっていることは、主観的であり、エゴイスティックなものに見えるかもしれません。ですが、このようにいうと聞こえは悪いかもしれませんが、なにからなにまで「みんな一緒に、平等に」という風潮のなかで、主観的な世界のモノを介して具体化してみせることに、むしろ価値があるのではないかと思いたい。
徹底して、自分の眺めてみたい世界をつくることにこだわる。その原初の欲望、それこそが肝心なのではないかと思います。
宇川: DOMMUNEでは毎日、「現在」の時間軸を扱っているけれど、もう一方でそれらを発酵させる時間も必要だと思っています。刻々と変わる「現在」を前に、これからどんな歴史を紡いでいくかを考えていきたいですね。
JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク
開館時間:11:00-18:00 (金・土 -20:00時まで開館)
*入館は閉館時間の 30 分前まで
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日休館)、年末年始、その他館が定める日
入館料:無料
http://www.intermediatheque.jp/
INTERVIEW & EDIT BY ARINA TSUKADA
CREDIT
- TEXT BY ETSUKO ICHIHARA
- アーティスト、妄想監督。1988年、愛知県生まれ。早稲田大学文化構想学部表象メディア論系卒業。日本的な文化・習慣・信仰を独自の観点で読み解き、テクノロジーを用いて新しい切り口を示す作品を制作する。アートの文脈を知らない人も広く楽しめる作品性から、国内の新聞・テレビ・Web媒体、海外雑誌等、多様なメディアに取り上げられている。主な作品に、大根が艶かしく喘ぐデバイス《セクハラ・インターフェース》、虚構の美女と触れ合えるシステム《妄想と現実を代替するシステムSRxSI》、家庭用ロボットに死者の痕跡を宿らせ49日間共生できる《デジタルシャーマン・プロジェクト》などがある。 http://etsukoichihara.tumblr.com/
- PHOTO BY GOTTHINGHAM
- 写真家。様々な領域において、キービジュアルなどの写真撮影・映像演出を手掛ける。近年は、国際的な研究開発機関、アートセンター、企業、地方自治体などとのコラボラティブ/コミッションワークを中心に作品制作を行うほか、出来事の構造探求を起点に、「パラノーマル」と呼ぶ手法を用いたビジュアル・ディレクションやアーティスティック・リサーチのアサインも多数行う。2009 年~2012 年、アーカスプロジェクト実行委員会(主催:茨城県)にて、国際アーティスト・イン・レジデンスや地域計計画事業の企画・運営・プロモーション制作に従事する。ロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーション修士準備課程修了(写真)。 http://gottingham.com/