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More than logos:ことば以上のもの (1)
2016.09.30
メディアとイメージの間にあるものートーマス・ルフ
アートとサイエンスの間にひそむ「ことば以上のもの」の在りかを探る連載シリーズ(序文はこちら)。現代社会のメディアとイメージの関係に鋭いメスを入れるアーティスト、トーマス・ルフへのインタビューから、作品から発される「ことば以上」の力のあり方を探求する。
ルフは1958年ドイツ生まれの芸術家。1977年から85年にかけて、ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻の指導のもと、デュッセルドルフ芸術アカデミーで写真を学んだ。
その作品は、とりわけ初期のシリーズにおいては、日常的な家庭の室内を撮影した《Interieurs(室内)》シリーズ(1979–1983)や、友人のポートレートを大きく印刷した《Porträts(ポートレート)》シリーズ(1986–1991, 1998)、報道写真の意味を脱構築するように編集した《Zeitungstotos(ニュースペーパー・フォト)》シリーズ(1990–1991)など、被写体としてかつて存在していた現実の多かれ少なかれ正確で多かれ少なかれ捏造された表象をうみだすメディアとしての、いわゆるストレートな写真のイメージをつくりだしてきた。
他方で、とくに素材として他者が撮影した画像を使用しはじめて以降しばしば、ヨーロッパ南天天文台やNASAの探索船が撮影した写真を素材にして編集をほどこした《Sterne(星)》シリーズ(1989–1992)や《Cassini(カッシーニ)》シリーズ(2008–)や《ma.r.s.》シリーズ(2010–)、あるいはインターネットを流通する画像ファイルのデータを編集することで生成した《nudes(ヌード)》シリーズ(1999–)や《jpeg》シリーズ(2004–)、撮影の物体的な一回性に賭けられていたかつてのフォトグラムを反復可能なコンピュータ・シミュレーションで更新してみせた《Photogram(フォトグラム)》シリーズ(2012–)など、そもそも現実と表象からは離れたところでメディアがイメージを生みだす、いわば非写真的な写真のイメージをつくりだしもしてきた。
ルフの仕事は、被写体としての現実をいかに写真によって可視化するかということよりも、写真を含めたメディアというものが、いかにして現実のイメージを自らつくりだしてしまうかについての探究と呼ぶべきものかもしれない。その探究の成果を、ルフは、写真の編集や印刷の技術の精巧さと、素材となる画像の収集や加工の大胆さによって、あくまで印刷されたイメージの表面上に現像してみせる。
「写真」は真実を写し出さないメディア
アート作品は、その実物の大きさを前にしたとき、サイズそのものが「ことば」による理解を超えてはたらきかけてくるのを感じさせることがある。ルフの多彩なスタイルのひとつにも、写真の大きな引き伸ばしがある。たとえば、《Porträts(ポートレート)》シリーズは、友人たちを撮影したポートレートを拡大して印刷することで、高く評価を受けた初期作品である。そこでは印刷された写真の大きさはどのように作用しているのだろうか。
「じつはわたしが友人のポートレートを撮影しはじめた頃は、小さいサイズで印刷していたのです。すると展覧会のオープニングに来てくれたある友人がこう言いました——『これはラルフだね。あれはフィオレンティーナかな』。わたしは応えました。『いや、あれはフィオレンティーナの写真だよ、フィオレンティーナはほらあそこに立っているじゃないか』。このときわたしは理解したのです。人々はメディアと現実を混同している、と。
そこでわたしは、ポートレートを大きく印刷してみることにしました。そして次の展覧会、その友人がまた来てくれて言いました——『おお、これは、大きなラルフの“写真”だね』。これはあくまで写真であって現実ではないということを理解したのです。人々はたいてい写真を通して現実を見ているものだと考えていて、その間にメディアがあるということを理解していません。写真というのはメディアであって、現実を見ているのではなくイメージを見ているのだということを、忘れてしまうのですね。
それから、わたしがはじめて巨大なポートレートをつくったとき、それは人々にとってたいへん衝撃的なものだったようでした。みんな、とても迫真的でいくらかファッショナブルな巨大広告のようなイメージには慣れ親しんでいたけど、これほどの高画質のカメラで撮影された顔をのぞきこんだことはなかったというのです。それは人々がいまだかつて見たことのない、ほんとうに新しい何かだったのです。
さらに、この巨大なフォーマットによって、現代美術における写真の解放もはじまりました。かつて写真は、一級のアートではなく、二級のアートとみなされていたのです。わたしが巨大な印刷をはじめてからも、同僚たちはアートとはみなされない写真を続けていました」
拡張されたポートレートは、写真が何か別の現実を透かし見るためのメディアなのではなく、写真というメディアそのものがそれでひとつの現実の存在であることを主張しはじめる。ルフの作品は、写真についての経験的な洞察からくる、メディアと現実についての理解にもとづいている。それは作品の鑑賞者にも、メディアと現実を問い直し、写真について考え直すことをうながすだろう。
「わたしはデュッセルドルフ芸術アカデミーで教育を受けていたこともあって、はじめはメディアについてはそこまで考えていませんでした。わたしが写真の勉強をはじめた頃、写真家にとって、写真を流通させる最良のメディアは本、写真集であると言われていました。でも、芸術アカデミーで教育を受けていたわたしたちは、まだ空間に展示された芸術作品にいれこんでいたので、写真にとって本や雑誌に印刷されることが最良であるなどということにはぜんぜん賛成できませんでした。そんなことは間違っているとわたしたちは考えていたのです。わたしたちは、ギャラリーに展示されたオリジナルの印刷を愛していましたからね。
メディアについて考えはじめたのは、たしか《ポートレート》のときです。その前の《室内》シリーズまでは、いわゆるストレート・フォトグラフィにほかなりませんでした。部屋に入って、カメラを設置して、撮影して、クロッピング、フレーミング、露光、……といった具合です。
でも、《ポートレート》でわたしは気づいたのです。なるほど、カメラはその目の前にあるものを記録するものである、しかし《ポートレート》では、わたしはすべてをアレンジしている。こういうふうに座ってほしいとか、これはいいショットだ、とか言ったりして、理想的な準備を整えている。それはまさにアレンジされた現実にほかなりません。ひとは今でもあらゆる写真がストレート・フォトグラフィ、つまり現実を切り取ったものだと考えているかもしれない。しかし、わたしは写真というものは99パーセントあらかじめアレンジされたものだと考えています。
かくしてわたしはメディアについて考えはじめました。メディアはどのように使われているのか、人々はメディアをどのように扱っているのか。デジタル化がはじまったのは1990年代でしたので、当時はまだ古風なアナログ世界ではありましたが、わたしはメディアのこういう問題にも取り組まなくてはならないと考えたのでした」
現実を表象したものとしての写真ではなく、人間が認知する前にあらかじめ現実をアレンジしてイメージをつくりあげてしまうメディアのアート。「フォトグラフ」は日本語で「写真」と翻訳されているが、これは文字通りには、真実を複写するという意味になるだろうか。しかし、写真というものをそのように理解したなら、それはルフが考える意味での写真というものの真実をとらえそこなうことになりはしまいか。なぜなら、写真というメディアは、現実を反映するものではなく、イメージを構成するものだからだ。
「ことば」以上のイメージ
しかし、そうしてつくりあげられたイメージとは、ぜんたい何なのだろうか。ルフの作品は現実を切り取り写し出すものではない。しかし、それでいてなお、その印刷の表面には、現実の痕跡とは別の、何かが現像している。そこにはいったい何が映っているのだろうか。
「それは、わたし自身にとってもその時々によって変わってきます。
一例として《ポートレート》について考えてみましょう。たとえば、あるときは、作品の50パーセントはポートレートの見た目について考えていて、50パーセントは人物そのものについて考えています。でもあるときは、80パーセント人物について考えていて、20パーセントだけメディアのことを考えている、ということもあります。
そして、わたしは写真と取り組んでいるわけですから、つねにイメージのなかの現実に取り囲まれています。それは、しかしそれでもなお現実であって、わたしのイメージのなかにある現実の真実ではあるのだけれど、何と言ったらいいか、私自身にとっても折々に変化してゆくものなのです」
では、たとえば最新作の《press++》シリーズの場合はどうだろう。このシリーズでは、いろいろな種類のメディアの異種混淆によって画面がつくられている。なかには文章も混ざっているが、それが何について語っているかの言語的な意味や概念的な内容は潜在化し、あくまで混成的なイメージをかたちづくるひとつのイメージとして印刷の表面上に合成されている。
《press++》シリーズは、出版社に保存されていた印刷原稿を素材としたフォトモンタージュである。ルフはしばしば、被写体を記録する写真撮影者としての作者性など他者にすっかり譲渡してしまって、むしろ蒐集してきたイメージを素材にした作品制作に注力する。《press++》シリーズもそのひとつで、そこでは1960年代の新聞の制限された印刷の条件にまず興味をひかれたようだ。
当時、新聞上に写真を印刷するのはとても難しく、人々はイメージにコントラストを加えたりして、なんとか画質をよくしようとしていたという。アナログで写真を扱わなくてはいけなかったし、編集にはエアブラシやペンシルなどを使っていた。そういうレタッチメントがすでに豊かに残されていた素材に、ルフはさらに次のようなフォトモンタージュを加えたという。
「印刷の表面にはすでにマークやサインやクロッピングやドローイングやレタッチメントがほどこされているわけですが、そこへ裏面に記入されていた情報を合成したのです。というのも、これらの写真はときに表面と裏面のどちらがより興味深いか判断しかねるものだったからです。それで、裏面にあるすべての情報を、印刷の表面に持ってくることにしました。
そうやって合成すると、グラフィックや文章やスタンプによって破壊されたイメージができあがるわけです。それは破壊されたイメージではあります。しかしそれは、美しく破壊されたイメージなのです」
もとより被写体として独立した唯一絶対の客観的現実など存在しないというメディアの境地で、しかし写真作家はイメージを生みだす。もしメディアというものがたんに現実とイメージのあいだに介在しているというだけのことなら、メディアとしての写真は、イメージの彼方にある現実を表象する「ことば」の光学的な変奏にすぎない。
真正の現実であれ、アレンジされた現実であれ、現実についての写真であるかぎり、写真は「ことば」の仕方で現実を表象するメディアのイメージにとどまる。しかし、もしメディアのイメージがイメージの表面上で現実のイメージをメディア自ら生みだすなら、そのとき写真は現実の表象とは別の何かであり、そして、作品の実物がもつサイズの力もまた、そのときはじめて「ことば」とは別の仕方で鑑賞者にはたらきかけてくるだろう。
初期の《Porträts(ポートレート)》シリーズからいくつものシリーズを経由したひとつの到達点としての《press++》シリーズが鑑賞者をひきつける魅力の一端がそこにある。
アート写真とサイエンス写真をミックスする
さまざまなメディアの領域を横断して採取した素材から複合的なイメージを生みだすルフは、領域を超えたアートサイエンスについてどのような考え方を教えてくれるだろうか。そもそもルフは、アートとサイエンスとアートサイエンスというカテゴリー、ないしアート写真とサイエンス写真とアートサイエンス写真というカテゴリーについて、どのように考えているのだろうか。
「それらのカテゴリーは互いにまったく異なりますよね。最も興味深い写真は、アートのカテゴリーのなかで撮影されたのではない写真です。わたしはサイエンス写真が好きです。どんなアート写真よりもずっといい。
ただ、実際思うに、どんなものでもアート作品になることができてしまいますよね。たとえそれがアート作品になることを意図したものでなくてもです。19世紀の科学実験の写真なんかもそうでしょうか。
とまれ、わたしはそういった類いのカテゴリーを好んでいるわけではないのです。わたしはそれらのカテゴリーをミックスするのが大好きなんです」
アートとサイエンスをミックスするルフの仕事は、彼のラボにおけるイメージ制作の精妙なプロセスの数々にかかっている。ラボとは、技術的なノウハウの明晰に概念化され言語的に体系化された知識の構造物にほかならない。
しかしイメージをつくりだすプロセスはそれに尽きるものではない。ルフはそのさまざまなプロセスのなかでも、とりわけ印刷を重視しているという。そして印刷されたイメージたちは並べられ、色や露光やコントラストなどが比較される。そのなかから作品が選び出されるのである。ところで、ではその決定的な選択のプロセスは、どのようにしておこなわれているのだろうか。ルフがイメージを選ぶとき、何が決め手になっているのか。
「じつは、これと決まったやり方はないのです。これは難しいプロセスで、実際のところ、わたしにもよく分かっていないのですよね。……もしかしたら宇宙からのエージェンシーがこれを選べと知らせてくれているのかもしれませんね」
大学進学にあたってアート写真を選ぶか天文学を選ぶかの決断をしたというルフ、そして《sterne(星)》や《cassini(カッシーニ)》や《ma.r.s.》といったシリーズの素材にたびたび宇宙のイメージを使用してきたルフらしい、ユーモアにみちた応答である。
しかしまさにこの「ことば」にしがたい境地でおこなわれている識別こそが、ルフの作品の秘密のひとつであるとともに、アートサイエンスが探究すべき領域のひとつなのではあるまいか。そしてまた、特異な魅力のアートサイエンスというものはどれも、「ことば」による説明とは別の回路ではたらきかけてくる何かがあるものだ。
ルフ自身は、完成した作品を前にしてそういう何かを感じることがあるだろうか——「ことばにならないのだけれど、それはいつもわたしを幸福にし、笑顔にしてくれます」。ルフはそう応えてくれた。東京国立近代美術館と金沢21世紀美術館の展覧会では、ルフのこれまでの活動を代表する作品たちが展示される。
アートとサイエンスをミックスする写真の領域で生みだされたイメージたちの結晶にたちあえば、それらのカテゴリーに先立つ中間的なメディアの、まさに「ことば以上のもの」の境地ではたらく不思議な力にふれることがあるかもしれない。
トーマス・ルフ Thomas Ruff
1958年、ドイツ、ツェル・アム・ハルマースバッハ生まれ。1977年から85年までデュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻のもとで写真を学ぶ。展覧会ではドクメンタ9 (1992年)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1995年)など国際展への参加をはじめ、2001年から04年にかけてヨーロッパを巡回した回顧展や2012年のハウス・デア・クンスト(ミュンヘン)での大規模な個展を開催するなど、今日に至るまで世界各国での展覧会が開催され、現代ドイツを代表する写真家として活躍する。
トーマス・ルフ展
会場:東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー
会期:2016年8月30日(火)—11月13日(日) 月曜休館
(祝日の場合は開館し、翌日休館)
開館時間:10〜17時(金〜20時)※入館は閉館の30分前まで
本連載(More than logos:ことば以上のもの)について
人間をふくめた生物たちの社会・生態系が、「ことば」だけでなく「ことば」以上の仕方でもまた、いかに思考しコミュニケーションすることができているのかについてと、その理解にもとづいた新しい世界を探る連載です。
詳しくは以下リンクより。
CREDIT
- TEXT BY DAISUKE HARASHIMA
- 東京大学大学院総合文化研究科特任研究員。基礎情報学/表象文化論。論考に「メディアアートへの視座:サイバネティクス」(『メディア芸術カレントコンテンツ』、2016)、「予測と予知、技術的特異点と生命的特異点」(『現代思想』、2015)など。 http://digital-narcis.org/Daisuke-HARASHIMA/
- PHOTO BY RAKUTARO OGIWARA
- 写真家。1991年 スウェーデン生まれ。2010年 多摩美術大学芸術学科入学。この頃から写真を撮り始め、2015年に中途退学。フリーランスの写真家として活動中。 http://raku-taro.tumblr.com/