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2021.12.13
快楽と不安、痛みと生命力が絡まり合う。ドイツ人アーティスト、アンネ・イムホフ4時間超のパフォーマンス「Natures Mortes」レポート
TEXT BY SAKI HIBINO
2017年ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞し、一躍、現代アート・パフォーマンス界のスターとなったドイツ人アーティスト、アンネ・イムホフの個展「Natures Mortes」が、パリのパレ・ド・トーキョーにて開催された。挑発的でセンセーショナルなパフォーマンスを通じて再定義される身体性や感情は、デジタル時代におけるクリエイティブで個性的な声として注目を浴び続けている。絵画、ドローイング、ビデオ、サウンド、彫刻などを含む本展の締めくくりとして、10月14日から18日、21日から24日の2週連続の週末に行われた4時間のパフォーマンスを展示とともにレポートする。
【Main Visual Credit】
Eliza Douglas in rehearsals for Anne Imhof, Natures Mortes, 2021
Photography: Nadine Fraczkowski / Courtesy of the artist and Palais de Tokyo, Paris
パレ・ド・トーキョーの外に続く長蛇の列。並んでいる来場者をみると、ここはパリコレかと思うほど、個性的でお洒落な装いのゲスト、流行に敏感そうな若者の姿も目立つ。アンネ・イムホフが、アート関係者だけでなく、ファッション、音楽、デジタルネイティブ、クィア層にまで絶大な人気を誇っているのを物語る光景であろう。
パレ・ド・トーキョーの展示コンセプト「Carte Blanche」の一環として、今年5月から開催されたアンネ・イムホフの個展「Natures Mortes(静物画)」で、イムホフは、美術館の壁や天井を剥がし、コンクリートの柱や金属の骨格が剥き出しの殺伐とした廃墟へと建物を変貌させ、クールかつダークなセクシーさを纏うパフォーマーたちと建物全体を占拠した。
これまでのイムホフのパフォーマンスと同様、「Natures Mortes」では、自身が制作した彫刻、絵画、映像やサウンド作品を展示した他、ヴォルフガング・ティルマンス、マイク・ケリー、アドリアン・ビジャール・ロハス、ジグマー・ポルケ、フランシス・ピカビア、サイ・トゥオンブリーなど彼女を形成してきた約30名のアーティストの作品も含まれており、パフォーマンスとは別に鑑賞することができる。
展覧会の最後の週末に行われたライブパフォーマンスは、作品が並ぶ展覧会空間で行われ、展覧会のイメージを再構築していく。ダークでヒップなファッション、ポストパンクやインダストリアルな音楽、ポストモダンへの倦怠感、SNSやデジタルネットワークの中で生きる身体、アンダーグラウンドな若者文化の美学を取り入れた作品に仕上がった。
イムホフは、本作品のテーマを、彼女の過去の作品群「Faust」「Sex」などにも共通して見られる「(人生を含む)時間の儚さ、生と死、選択、瞬間が宿すエネルギーや混乱、痛みなど」と語っている。
鑑賞者は、4時間を超えるパフォーマンスをとおして、快楽と不安、若さと欲望、生命と非生命、闇と光、過去と現在、静寂と喧騒、思索と行動、覚醒と幻惑など、様々な感覚や事象のあいだをさまよう儀式に誘われる。
「私に注目して。自己紹介をさせて。
わたしは動物で、死ぬまでずっと見られ、晒され続けている。
わたしは人間である。他の人間たちはわたしを殺す方法を常に考えている。
結局、わたしは孤独なのだ。それは、言い換えるとますます孤独でなくなるということなのかもしれない。
できるだけシンプルな言葉で伝えるが、わたしは常に誤解され続けている。
すべてはただ続いていく、続いていく、続いていく。何の意味もなく。
永遠なものなど存在しえない」
エントランスで語りかける中性的な独特の空気を放つパフォーマー。
イムホフの作品を導く重要な存在エリザ・ダグラスだ。バレンシアガのモデルも務めるダグラスは、イムホフのミューズであり、長年のクリエイティブパートナー、そして恋人でもある。2015年に2人が出会った直後からイムホフの作品に登場しており、「Natures Mortes」では、メインアクターを務める他、出演者のキャスティングとスタイリング、音楽の作曲を担当している。
メランコリックなフレーズとサウンドが鳴り響くエントランスを通り、展覧会スペースに足を踏み入れる。1階から地下2階までコンクリートや配線が剥き出しとなった空間は、高さのあるスモークガラスのパネルが格子状やトンネルのように配置されたり、工業団地のような金網が敷かれ、迷路のようになっている。その迷路のような空間に自身の作品やキュレーションした他アーティストの作品が展示されている。
このガラス板は、1970年代にトリノでサービス産業の遺跡と化し、廃墟となったオフィスビルの一部が使われているという。資本主義の終焉を物語るように変色した不透明なパネルには、退廃的なベルリンのアンダーグラウンドシーンを連想させるようなグラフィティが施され、ポストインダストリアルな空間を作り出している。
イムホフの作品の中でガラスは、多角的な視点を得るためのツールとしての役割を持ち、透明性と匿名性、反射と投映、光と影、制約と自由といった両義性やそのあいだに存在する曖昧さを表現している。
2017年のヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した「FAUST」では、ドイツ館のパビリオン全体が全面ガラスで覆われ、内部にはガラスの床(見る側にとっては床、見られる側によっては天井)が設置された。ガラス面の床の底には革製のマットレス、手錠、スプーン、鎖、怪しげな液体の入ったボトルなど様々なモノが置かれ、パフォーマーたちはガラスの下で、携帯電話をチェックしたり、蛇のように這ったり、抱き合ったり、自慰行為をしたり、床に火をつけるなど様々な行為をおこなった。そのパフォーマンスは、常に、鑑賞者の行動と呼応した即興の要素を含むため、再現性が難しい。そして見る者に不安や恍惚を与え、記憶に強烈に残るインパクトを与えた。
Artnetに寄稿した芸術評論家のLorena Muñoz-Alonso氏は、この作品を「地獄のキャットウォークショー」と表現し、「誰が権力を持ち、誰が力を取り戻そうとしているかという権力について語っている」と述べ、Artforumでは、David Velasco氏が「最高にクールな作品。そしてここには心がある。」と評した。イムホフはその後、ロンドンのテート・モダン、コペンハーゲンのデンマーク国立美術館、シカゴ美術館などで注目を集める展覧会を開催し、国際的に注目を浴びるアーティストの一人となる。
ダグラスを中心とする10数名のパフォーマーたちは、ガラスの迷路と化したパレ・ド・トーキョー全体に散らばっている。4~5時間におよぶパフォーマンスの中で、鑑賞者は自由に動くことができ、作品の一部として機能する。
天井を自動的に走るサウンドスピーカーが陰鬱な音楽を奏でる中、パフォーマーは、床をゾンビのように這ったり、狂ったように暴れ出したり、威嚇したり、スケートボードで移動したり、お互いに抱擁しあったり、何もしないでただ立ちすくんでいる。
ある時は、爆音で奏でられるポストパンク、ドローン、グランジ、インダストリアルな音楽に合わせ、ライブステージ上でダグラスが熱唱し、パフォーマーたちが踊る。上半身裸のダグラスが石榴を血のように垂らしながらほおばったり、火がついたキャンドルの蝋を自分の口や他のパフォーマーの身体に注ぐなど、一種のカルト的でエロティックな集団的儀式を彷彿とさせるセンセーショナルでドラマティックな場面もある。
またある時は、パフォーマーたちは一斉に隊列を組み、クールなゾンビ軍団と化して、ゆっくりと部屋を横切っていく。移動式のサウンドスピーカーの上に立ったり、タバコを吸ったり、VRを装着しながら座り込むパフォーマー、十字架のように両手を広げて横たわるダグラスを担ぎながら進むパフォーマーたちを、鑑賞者がぞろぞろと群れをなして追いかけていく。
作品は複数のシークエンスが同時に進行することが多いため、鑑賞者は、スマートフォン片手に好きなところへ自由に動きまわる。ここで起こる事象やパフォーマーの一挙一動を写真やビデオで撮影しようと必死の鑑賞者。そんな彼らを平然と見つめ返し、鑑賞者の貪欲で過剰な行為をも振り付けの一部として昇華させるパフォーマーたち。私たちは、彼らの退屈そうな表情、死んだような目、迫ってくる身体に緊張し、強迫感や不安を覚えつつも、さらに魅了されていく。
観客の行動によって、動きや空間が制約されたり、妨げられることも頻繁に起こるため、イムホフとパフォーマーやスタッフたちは、WhatsAppで連絡を取り合い、リアルタイムに動きの調整を行っている。鑑賞者の動きや展示してある作品との相互作用のもと、振り付けられた動きと即興で生まれる動きが混ざり合い、パフォーマンスや空間はより生命を帯び、活性化されていく。
同時に、ここで思い出されるのが、エントランスでのダグラスの言葉である。このパフォーマンスの中で垣間見える、鑑賞者(見る側)とパフォーマー(見られる側)の構造が、私たちが、生活の中でどのようにSNSやインターネットなどのネットワークに組み込まれているのかを認識させる。
自分自身や他人の存在を動物園の動物のように扱うーその行為は、わたしたちが、目に見えない透明な檻の中で生活していることを示唆する。ポストインターネット社会の中で加速する生産・消費行動は、私たちの身体を制約し、ある種の偏見や概念の中に私たちを閉じ込める。デジタル時代における分断と接続をとおし、私たちがどのようにお互いに関係しているか、自己・他者・社会とのつながりの変化を問いかけているともいえよう。
「人々がそれぞれの感情を抱くことができるようなオープンな作品を作ることを心がけている」と語るイムホフ。現在、ベルリンを拠点に活動しているイムホフは、左翼的な政治や、反ファシストを支持する家庭で育つ。非常にクィアな子供として育った彼女は、20歳になるとフランクフルト郊外の左翼コミューンに移り住み、そこで娘を育てながら、詩や音楽を作り始める。その後、フランクフルトで定評がある美術学校Städelschuleに通いながら、有名テクノクラブのRobert Johnsonでバウンサーとして働く。こうした経歴もまた、彼女のパフォーマンスの中に、アンダーグラウンドカルチャー特有の熱量、連帯、生命力を感じる理由かもしれない。
パフォーマンス中に、ダグラスは「唯一の生命は、私の声のようなもの」という言葉を繰り返す。その言葉に導かれるように、あるいは、未来に起こるであろう反乱への衝動に動かされているかのように、若きパフォーマーたちは、動きによって自分たちの力を主張し、身体の塊として存在感を示す。この時、私たちの身体は、まるで詩のように機能する抽象的な言語となる。
鑑賞者も含めて、私たちの身体は集まり、ぶつかり合い、混ざり合い、次なる動き(声)が誘発される。
それは、生と死、人生の儚さといったテーマのもと、ヴァニタスやメメント・モリのような一時的なものを超え、未来への希望の手がかりとなるような新しいイメージを刻々と生み出している。
自分自身や他者、属する社会、そして未来に対する「わからなさ」という感覚が、リアリティのある問いである現代だからこそ、私たちは、彼女の作品の中にある様々な事象や感覚の両義性や曖昧さに共鳴し、引き込まれていくのではないだろうか。
私たちを縛りつける理不尽な権力、固定概念、社会・経済構造などに対しスタイリッシュな挑発を放ち、世界の痛みを理解させる瞑想的な旅へと誘うアンネ・イムホフ。彼女が次に描くヴィジョンが楽しみでならない。
CREDIT
- TEXT BY SAKI HIBINO
- ベルリン在住のエクスペリエンスデザイナー、プロジェクトマネージャー、ライター。Hasso-Plattner-Institut Design Thinking修了。デザイン・IT業界を経て、LINEにてエクペリエンスデザイナーとして勤務後、2017年に渡独。現在は、企画・ディレクション、プロジェクトマネージメント・執筆・コーディネーターなどとして、国境・領域を超え、様々なプロジェクトに携わる。愛する分野は、アート・音楽・身体表現などのカルチャー領域、デザイン、イノベーション領域。テクノロジーを掛け合わせた文化や都市形成に関心あり。プロの手相観としての顔も持つ。