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2021.10.11
本を通じて他者の環世界を知る。オンライン対話イベント「ほんとのはなし」川上洋平・磯谷香代子インタビュー
コロナ禍の昨年10月から始まった「KYOTO STEAMー世界文化交流祭ー(以下、KYOTO STEAM)」内で開催されている「ほんとのはなしー自分の環世界を見つめようー(以下、ほんとのはなし)」は、対話型オンライン読書会という形で、毎月さまざまなゲストを呼びながら、いままでの読書会とも対談とも異なるかたちで開催している。TISSUE Inc. 代表、編集者であり境界文化研究者でもある安東嵩史氏が聞き役となり、「ほんとのはなし」の経緯や思いについて、企画の制作から運営に関わるカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社CCCアートラボ プランナー、KYOTO STEAMディレクターの磯谷香代子氏と、ファシリテーターも務めている選書家でbook pick orchestra代表の川上洋平氏に話を聞いた。
コロナウイルス感染症の拡大がはじまって以来、リアルな場で人と集まることが難しい状況が長く続いている。オンラインで人と会う機会は、以前と比べて飛躍的に増えたものの、どこまでの広さや深さをもった対話がオンラインの場で形成できるのだろうか。
同じ環境下にあっても、虫や動物はそれぞれに異なった知覚機能に基づき、自分たちの世界を立ち上げて生きているという、ドイツの生物学者であり哲学者であるエクスキュルの「環世界」を引きながら、「人間も、知覚機能こそほぼ同じものの、それぞれの経験や性格、それに基づく考え方によって、同じ時間や空間を過ごしながら、異なる世界の受け止め方をしているのではないか」という考えをコンセプトに、アーティストの長谷川愛氏、物理学者の橋本幸士氏、サウンドアーティストの細井裕美氏といった多彩なゲストを迎え、本の可能性を開いていくような対話の場を開いている。
まず、この企画はどのような経緯ではじまったのですか?
磯谷香代子(以下、磯谷) もともと、京都市が主催しているKYOTO STEAMというイベントがありまして、このイベントは、古都京都というブランディングが多い中で、例えば琳派であったり、かつての京都で起こっていた何百年先まで続く文化の可能性を、いま起こしていこうという未来型の企画として始まったものです。その中の企画として、市民が気軽に対話ができるような場所を、ロームシアターで定期的にできないかという話がでてきたのが、はじめのきっかけです。
その当時は、コロナウイルスの感染症が拡大する前だったので、実際に人を集めての開催を想定した企画を考えていました。はじめにイメージしていたのは、デンマークの音楽フェスから始まった「ヒューマンライブラリー」という企画で、それは音楽フェスの中で、人間をひとり貸し出せます、というものです。そこで貸し出される人には、警察官やアーティスト、元受刑者や移民の方、身体障害のある方だったりと、いろんな方がいるんです。野外のさわやかな場所で、そういったさまざまな人と話ができるという内容に、個人的にとても興味がありました。
けれど、その直後にコロナウイルスの感染症の拡大が始まり、リアルな場所では開催が難しくなってしまいました。オンラインでの開催も考えたのですが、そのままでは意味合いが変わってきてしまうように思って、私たちのベースとなる事業が蔦屋書店という本屋なので、本を絡ませながら、何かそれに変わる企画が考えられないだろうかと模索していました。そのタイミングで、選書家であり、さまざまな本の企画もされているブックピックオーケストラの代表である川上さんに相談したんです。
なるほど。そこからどのような流れで現在のような形態になっていったんですか。
川上洋平(以下、川上) もともと、リアルな場所でのワークショップはさまざまに経験があったのですが、相談を受けたときは、私も同じくコロナの影響で、リアルな場所での開催ができなくなってきたタイミングでした。ただ、友人から「哲学対話」という誰もがオープンに対話に参加できる場の形式を紹介されていて。オンラインでもできるシンプルな形式だったので、プライベートで友人に声をかけて数回試していたところだったんです。磯谷さんから相談されたときに、ヒューマンライブラリーの話をされて、この哲学対話のことが思い当たりました。ではこの2つを参考にしながら本を要素として加えて、いま必要と思われる対話の場を考えましょう、と相談しながらかたちにしていったのが「ほんとのはなし」です。
「いま必要と思われる対話」というのはどういったものだとお考えでしょうか?
川上 まずひとつめは、毎回課題図書を設定していて、対話者にはその本を事前に読んできていただくのですが、本を読むというと、どうしても勉強とかその本を理解するというイメージが強く、話す内容も本に引っ張られがちです。しかし、いまは本の可能性を広げていくような対話こそ必要と思っていたので、事前に本を読んでくるときも、自分の意見をもって、本と対話するように読んできてもらうよう伝えています。その意図を「ほん、とのはなし」というタイトルの読みに含めています。
ふたつめは、本について話をすると、つい情報や知識の話に偏ってしまうことが多いので、対話の場においては、その人が実際に体験したり経験した話、たとえ知識であってもしっかりと腑に落ちている話をしてほしい、ということを「ほんと、のはなし」という読み方に含めました。答えやゴールに向かうような議論や対話ではなく、対話者それぞれの体験や経験を通して感じた「ほんと、のはなし」が共鳴するような対話の場が、いまの時代に必要なのではないか、と思っています。
磯谷 ちょうどこの企画を考えていたのが、2020年の1月から3月頃で、加速的にコロナウイルスの感染が広まって行く中、みんなが家にこもる時間も増えたときでした。SNS上でのやりとりも増えて、私もTwitterなどを見ていると、すさまじい罵詈雑言でが飛び交っているなあ、と感じてたんです。その内容も、自身の思う正解や正義を盾に、他者を批判している人がとても多い。でも自分にとっての常識が、みんなにとっての常識とは限らないんじゃないかと感じていたので、その状況がとても気持ち悪かったんです。もしかしたら、そこには他人に対して甘えてるようなところがあるのではと思ってたんです。
もちろん、いろんな状況の中で怒りにつながることは理解できる反面、自分と他人の距離感をしっかりと感じ取ることができれば、こういった不愉快なコミュニケーションは減るのではないかと感じていたことも、このような対話の企画にした大きな理由としてあります。
お互いの距離を測るための共通のものとして、本があるということですかね。
川上 そうですね、ものさしとしてとらえたときに、それが数値化できるようなものではなくて、本のような解釈の余地を広く含んでいるものであるということも大事なように思います。
磯谷 それぞれの人の意見を批判せずにあるがままに話せる場を作ることで、同じ本を読んでいても、人によってこんなに感じていることが違うんだと、他人と自分の違いを感じてくれたらと思っています。
感じていることや考え方が違っても、そういう考えもあるのかとお互いに感じるだけでいい。答えを出すためにはやりたくないという思いがあります。
サブタイトルに「自分の環世界をみつめよう」とありますが、ここについても少し説明していただけますか?
川上 「環世界」という言葉は、ドイツの生物学者であり哲学者のエクスキュルが提唱したもので、生物は同じ環境下にあっても、それぞれの知覚によって世界を認識していて、そこから立ち上がる世界(環世界)は全く違っている、という概念です。エクスキュルは、虫や動物を対象として話をしていましたが、私たち人間も、知覚こそほとんど同じですが、それぞれの育った環境や、いままでの経験や体験によって、全く同じ空間と時間の中にいても形作る世界観は違っているように思います。「ほんとのはなし」という対話に向かう姿勢を伝えるために、このサブタイトルをつけています。
この「環世界」という言葉には、それぞれの「環世界」の外には認識できない、広大な世界が広がっているという感覚が見え隠れしています。私たちが知覚できて、認識している世界(環世界)は、それぞれが世界そのもののひとつの解釈ともいえます。認識の外側の領域を含めた、広い視野を感じながら考えるという姿勢も大事なように思います。
なるほど、自分をとりまく環境は本来それぞれ固有のものであるにも関わらず、他者のそれとの差が認識されづらくなっているというのは、現代における問題のようにも思いますね。
川上 ほんとのはなしのプレ会で、郡司ペギオ幸夫さんの『やってくる』という本を課題図書に扱ったのですがが、この本の書かれ方はとても環世界的だと思いました。内容もとてもスリリングで面白いのですが、そこに出てくる事例や題材がとても突飛なんです。例えば、著者が学生時代に体験した心霊現象であったり、知らない人を友人だと思って話し続けていた話であったり、研究や理論の面白さとは別に、事例や題材に、郡司さんの人間的な魅力が漏れ出てしまっている感じがします。
他者と共有不可能なものにこそ、お互いの共通項を見出す手がかりがあるかもしれませんね。
川上 その認識は「ほんとのはなし」で考えているところと近いと思います。郡司さんは「布団の下に干しぶどうが落ちてると思って口にしたら、昆虫の幼虫だった」というような、他者と共有不可能な学生時代のレアな体験を持ち出してくるんです。とことん突き詰めた論理的な研究内容のあいだに、こうしたギャップのある事例を挟んでくるのですが、そのことによって、その本や著者と親しくなるきっかけが生まれているように思います。
わかるポイントとわからないポイントが両方あるということ自体を認識する力学がそこで働くんですね。この人の体験そのものは理解できないけど、自分のあの体験に重ねると理解できるという感覚が生まれてくるという。
磯谷 そうですね、「ほんとのはなし」の対話の中でも、そこで想像力が働くことで、他の対話者が喚起され、次の話へつながっていくというシーンは多く見られます。
ゲストやテーマはどのように決めているんですか?
磯谷 ゲストはやはり今まで話してきたようなコンセプトに共鳴できる方や、環世界を感じられる仕事をされている方を探して、毎回のテーマを相談しながらお声がけさせていただいてます。例えば、最近なにか失敗をした人だったり、ダメな大人に対して、どんどん厳しい世の中になっているという話を川上さんとしていたんです。仕事ができなかったり、社会的にダメだという烙印が一度押されてしまうと、そこから元の状態に復帰するのは本当に厳しい。
けれど、江戸時代の落語なんかでは、たいていの主人公はダメなおじさんで、賢い子供に助けられたり、しっかり者の妻に怒られたりしながらも物語が展開していく。そこには、ダメなおじさんが生きているからこその面白みが生まれていて、落語の世界にはダメさを許容するおおらかさのようなものを感じます。
そんな話をしていたときにちょうど、写真家の大森克己さんが古典落語の名人・柳家権太楼さんが『心眼』という作品を演じる一部始終を写し取るという写真集を発売されたことを告知で知って、もともと大森さんが落語好きというのも知っていたので、大森さんに「ダメさ」をテーマにした回に出ていただけないかと、打診しました。
川上 「ダメさ」への厳しい目の原点には、「こうしなくてはいかん!」みたいな考えがあると思いますが、人間は完璧ではなく、誰もが失敗を体験します。「失敗は成功の元」といってしまうと、「成功」こそが素晴らしいように見えてしまいますが、失敗する姿、それ自体には成功とはまた違った深い味わいがあると思います。
落語に出てくる「ダメな人」は何とも言えず魅力的で、何度も繰り返し聴いてしまう力があります。大森さんもきっとその魅力を感じられているように思ったので、大森さんをゲストに「ダメさ」に対するさまざまな環世界の話を重ねてみたいなと。
これまでの対話のなかで印象的なシーンを教えてもらえますか?
磯谷 アーティストの長谷川愛さんをゲストに迎えた回では、濱野ちひろさんの『聖なるズー』という本を課題図書にしたのですが、この本は「動物性愛」をテーマにしていることもあって、著者の考え方を許容できる人と許容できない人がはっきりと分かれたんです。話としても真っ向からぶつかり合うようなものもあったのですが、最終的に意見は違うけれど、お互いにそれぞれに考え方があるよね、と収まるように話が進んでいったのが印象的でした。
意見がはっきりと分かれても、「ほんとのはなし」という対話の場では、ぶつかり合いにはならないんですね。
川上 相手を否定はしない、なるべく問いかけるようにしましょう、というルールがあることもありますが、ぶつかり合った意見が出たとしても、対話の場に対する姿勢が共有できていると、討論のような方向にはならないというのはファシリテーターとしても印象的でしたね。
他の回ではどうでしたか?
川上 京都精華大学学長のウスビ・サコさんをゲストに迎えたときに、サコさんはマリ共和国出身の方なので、日本人が人に迷惑をかけないように育てられていることにすごい違和感があったようで、「友達や家族なんて、迷惑かけてからが始まりやろ!」という話をされたんです。そのとき、対話者のひとりの方がとても個人的なエピソードを話されていて。
というのも、その方の旦那さんは、結婚当初は完璧な方でとても優しく、何でも言うことを聞いてくれて、争うこともなく、離婚なんて考えられなかったそうですが、何かが自分の中にだんだんと溜まっていって、ついには離婚してしまったと。そして、その次の縁で結婚された旦那さんは、思ったことはそのまま口にする方で、お互いよくぶつかり合うし、自分でも驚くほど激しく喧嘩をしてしまうと。けれど、以前の息詰まるような何かが溜まることはなく、いまもとてもうまくいっているんです、という話をしてくれたんです。こうして要約してしまうと味気ないのですが、対話の流れに共鳴してこういった個人的な話をしていただいたのは感動的ですらありました。
磯谷 話がのってくると、対話者の内側での共鳴が生まれていくのを感じがします。映画監督の佐々木誠さんがゲストの回では、ポール・オースターの小説『シティ・オヴ・グラス』が課題図書だったのですが、みなさんの体験した話それぞれがストーリーの一部と重なっていて、対話者の話を連ねていくと、小説の物語そのものになっていくというような不思議な回でしたね。
確固たる「自分」は存在しない
とても面白い話ですね。最近、私も「複数である」というのが大事だということを常々思っています。どんなことにも人の数だけの背景や理路があって、ひとつを選んでほかを塗りつぶすというのではなく、分岐の可能性も含めて「複数である」ことを受け入れていくという姿勢をもつことがポイントなのかもしれませんね。
川上 たしかにそうですね、いまも3人で話をしていますが、その中で出てきた発言は、ひとりでいたらきっと言葉になっていない考えもあって、ここでの言葉は3人が主体であるから生まれているとも捉えられると思います。さらにいえば、主体となる対象は人だけでなく、公園を歩きながら考えているときには、その考えの主体には、公園という場の環境さえも含まれているように思います。ある種の粘菌のように、ひとつの単位が個でなく全体でもなく、小集団、複数でとらえていくという感覚というんでしょうか。
自分ひとりで世界に存在しているわけではないですからね。現代では誰もが、自分というものが確固としたものであると思いすぎているのかもしれません。それに、話していたことが今日変わったとしてもいいわけですけよね。
自分ひとりで世界に存在しているわけではないですからね。現代では誰もが、自分というものが確固としたものであると思いすぎているのかもしれません。それに、話していたことが今日変わったとしてもいいわけですけよね。
最後に、今後の展開について教えて下さい。
磯谷 KYOTO STEAMは5年目の今年が最後の年で、ほんとのはなしも今年の12月までなのですが、少しずつアーカイブをYouTubeにアップしています。過去の回をぜひ見ていただけるとうれしいのですが、時を経たあとに見返してみて、かつてこんなことを考えていたのかという気づきにつながったらということも視野にいれてアーカイブしています。もう10回以上回を重ねてますが、それぞれにまったく異なる流れで対話が立ち上がっていくので、今後も他の場で続けられたらいいなとは思っているので、もし企画に興味がある方いたら声をかけていただけたらうれしいです。
川上 かたちが変わっていったとしても、「ほんとのはなし」で開かれているような対話の場はこれから続けていく必要があると思います。
「ほんとのはなし」のような場は、何も共有していないと思われている人たちが、何かを共有しうるのだ、ということを感じる格好の場になりますよね。自分の環世界を考えることは、他者について考えるということと表裏一体だと思います。この点についてはさらに拡張していくこともできるのかもしれませんね。
川上 もしかしたら「ほんとのはなし」は、他者と「共有しうる」作法を体感する場でもあるのかもしれません。初めて顔を合わせる人々が何も「共有しえない」ことを前提とした作法は多くあるように思いますが、「共有しうる」ことを前提とした場は少ないように思います。この「共有しうる」のだという思いは、ファシリテートするときにも意識しているように思います。
ファシリテーションとしては「管理する」方向につい向かいがちですよね。トラブルを未然に防ぐ役割というか。しかしそうすると思いもしないことが起こるという可能性も排除されてしまって、つまらなくなるように思います。
川上 そうですね、「ほんとのはなし」のファシリテートは、ゲスト、対話者、聴講者とさまざまな参加者が多いので、意識の置きどころが多くて大変ですが、毎回どうなるかわからないというライブ感はものすごく高いですね。それが楽しみではある反面、ファシリテーターとしての準備は、本を読む以外には、もはや瞑想をして心を落ち着けることくらいしかできないんですが(笑)
INFORMATION
ほんとのはなし YouTube チャンネルはこちら
https://www.youtube.com/channel/UCoiO_uvmfA4LGre4RywRG6A
【次回予告】
ほんとのはなしー自分の環世界を見つめようー
第13回 2021年10月27日(水)
ゲスト:川﨑仁美(盆栽研究家)
https://store.tsite.jp/kyoto-okazaki/event/shop/22583-1622111001.html
テーマ:「わたしと自然のつながるところ ー生命と科学ー」
課題図書『科学者が人間であること』 (岩波新書) 著:中村桂子