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2021.09.15
過去の「声」が私に憑依する。YCAMコラボによるホー・ツーニェンの新作VR&映像インスタレーション《ヴォイス・オブ・ヴォイドー虚無の声》
TEXT BY ARINA TSUKADA
アジアのさまざまな哲学的、歴史的テキストを中心に作品を手がけてきたシンガポールのアーティスト、ホー・ツーニェンの新作《ヴォイス・オブ・ヴォイドー虚無の声(以下、ヴォイス・オブ・ヴォイド)》が山口情報芸術センター[YCAM]とのコラボレーションによって実現した。題材としたのは、1930〜40年代という第二次世界大戦下の空気が色濃く広がる日本において、「京都学派」と呼ばれた哲学者たちの記録だった。VRとアニメーションを組み合わせ、かつての知識人たちの思想と葛藤をよみがえらせた本作のレビューをお届けする。
歴史の影に隠れた哲学者たちの声
「ホー・ツーニェンの新作、京都学派をテーマとしたVR作品を観に来ませんか」。
私がYCAMから誘いを受けた最初のメールにはそう書かれてあった。
この段階で「なるほど京都学派ですね!」と頷ける人は、本稿の読者のなかに何人いるだろうか。「京都学派」とは、哲学者の西田幾多郎(1870-1945)や田辺元(1885-1962)を中心に形成され、1930〜40年代にかけて日本の思想界でも大きな影響力を持ったグループのことだ。
今回の新作の中心には、「京都学派四天王」と呼ばれた西谷啓治 (1900-1990)、高坂正顕(1900-1969)、高山岩男(1905-1993)、鈴木成高(1907-1988)による座談会の記録がある。重要なのは彼らの名前ではない、その座談会が1941年11月――真珠湾攻撃の直前に行われたということだ。「世界史的立場と日本」と題されたその座談会では、文字通り世界における日本の立場が論じられるのだが、彼らの真摯な議論も急速な時代の波には抗えず、「大東亜共栄圏」という日本の極めて独善的な妄想ともいえる概念の正当化にもつながっていく。
日本最大の禍根を残した太平洋戦争は、まるで国中が一種の病魔に襲われたかのごとく、ファシズムと軍国主義へと突き進んだと語られることが多い。だがその裏で、どのような思想が語られ、何が原動力となったのか、学問のなかで知恵を編み続ける人々がどのような議論を重ねていたかを知ることは少ないだろう。
ホー・ツーニェンの《ヴォイス・オブ・ヴォイド》は、そうした京都学派の知識人たちを再評価するのでも批判にさらすのでもなく、「彼らの声が記録され、いまなお存在している」という事実のみにフォーカスしたものだ。それらの「声」をVRという極めて主観的な体験を促す装置に変換し、鑑賞者それぞれのなかに新たな経験をもたらす試みだった。
「西洋に対抗する東洋」の思想
そもそも、シンガポール人のホー・ツーニェンがなぜ「京都学派」を扱うのだろうか? 以前からアジア圏の歴史や哲学に深い関心を抱いていたツーニェンだが、実はあいちトリエンナーレ2019で発表された作品《旅館アポリア》で、すでに京都学派を扱っている。
《旅館アポリア》は、神風特攻隊(神風特別攻撃隊草薙隊)が出撃の前に最後の晩餐をしたという元旅館の日本家屋「喜楽亭」で展示された映像インスタレーション作品だ。ツーニェンはその歴史ある場所で、特攻隊たちの物語を映像や音声で伝える仕掛けによって、場所そのものに霊魂を憑依させるかのような異空間をつくりだした。
ホー・ツーニェン
シンガポール生まれ。さまざまな歴史的、哲学的テクストや素材から映画や映像作品、インス タレーション、演劇的パフォーマンスをつく る。近年の作品では、トラ人間(《一頭あるいは 数頭のトラ》、2017年)、三重スパイと裏切り者 (《名のない人》、2015年や《神秘のライ・テク》、 2018年)といった変容する登場人物たちを扱う。2011年ヴェネツィア・ビエンナーレの シンガポール館での個展をはじめとして、多く の国際的な美術展や舞台芸術祭、映画祭に招待されている。
Photo: Matthew Teo, Courtesy of Art Review Asia
あいちトリエンナーレ2019の閉幕前日(2019年10月13日)、ツーニェンは批評家の浅田彰との対談を行っている。そこで浅田は京都学派について、彼らは「西洋に対抗しうる東洋」としての図式的な構図にこだわった集団であり、西洋における全体主義と個人主義の二項対立などに対して、あらゆるものが相関し合う「関係主義」という東洋の知恵によって、その対立を超えられると考えたと解説する。その上で、あくまでその思想は言語上のゲームにすぎず、具体性を欠いていたとも指摘した(*1)。
一方、ツーニェンは浅田との対談の中で、京都学派を築いた西田幾多郎の最初の出版物『善の研究』を読んで感動したのと同時に、どのように欧米の文化や力と対峙し、いかに自分たちを見失わずに東洋と西洋の違いを見出すかといった西田の苦悩がありありと浮かび上がり、その葛藤と挑戦を評価したいと思ったと語っている(*2)。
*1 / *2 参考「あいちトリエンナーレ対談 ホー・ツーニェン×浅田彰」(OutermostNAGOYA)
https://www.outermosterm.com/aichi-triennale2019-ho-tzu-nyen-asada-akira-conversation/
対米戦争を批判的に捉えながら、日本がアジアでリーダーシップを発揮すべきだとも語った京都学派は、結果として大東亜共栄圏を正当化し、何人もの若き青年を戦場に送り出すという負の歴史を抱えてしまった。ツーニェンはこの矛盾にこそ興味を抱き、《ヴォイス・オブ・ヴォイド》を公開中にYCAMで開催したオンラインのトークイベント(*3)では、「このテーマや時代を扱うことに躊躇があったが、なぜ自分は躊躇してしまうのか、その問いが制作を駆り立てる原動力になった」と語っている。
ツーニェンの育ったシンガポールという国もまた、あらゆる矛盾をはらんだ文化圏のなかにあると言えるだろう。華僑をルーツとしながらも公用語は英語で、西洋と東洋の文化が常に入り交じる複雑なアイデンティティの間を揺らいでいる。今回は、太平洋戦争という負の日本の歴史を、わざわざ外国人が取り扱うことにもためらいがあっただろう。だからこそ、その葛藤に一石を投じたのかもしれない。
*3 アーティスト、ドラマトゥルクとのトークセッション 2021年6月27日(日)開催
https://www.ycam.jp/events/2021/talk-session-with-the-artist-and-dramaturg/
身体感覚と連動する、複数のレイヤーにまたがる世界線
さて、京都学派という一筋縄ではいかない哲学者たちの亡霊を、ツーニェンは新作《ヴォイス・オブ・ヴォイド》の中で、VRとアニメーション、そして映像インスタレーションという形態に落とし込んだ。
会場内の映像インスタレーションをいくつか鑑賞した後、予約時間になったところでVR体験へと案内された。VR作品内は「空」「座禅室」「左阿彌(さあみ)の茶室」「監獄」という4つの空間に分かれ、体験者の上下運動によって「天界(空)」「地上(茶室と座禅室)」「地下(監獄)」の空間をそれぞれ移動することができる。
VR装置を付けて腰かけると、はじめに「地上」の空間が登場する。そこでは「京都学派四天王」たちによる密談が、京都の料亭内の茶室を模した空間で行われている。内容は先述した、真珠湾攻撃直前に行われた座談会「世界史的立場と日本」であり、『中央公論』に掲載されたテキストを元に、4人の人物がそれぞれ目の前で語り始める。
体験者である私は、その場に居合わせた速記者として、彼らの語る声をノートに速記していく。一度手を止めると、4人の声は遠のき、おそらく速記者の「心の声」のような音声が聞こえてくる。その声を聞き取ろうと、さらに手を止めたまま下を向いているうち、ふと見上げると4人がこちらを見ている。この瞬間、とても奇妙な感覚に襲われた。原文の記録上には登場しないはずの「私」に、彼らの視線が向いている。
その後、彼らの顔はCGモデリング上の操作画面のように何層にもパーツが分かれていき、「これはあくまで仮想の世界ですよ」と言わんばかりに世界が融解する。
立ち上がってみると、今度は「天界」のゾーンに誘われる。そこでは突然ロボットアニメの中に入り込んだかのごとく、モビルスーツを身にまとった空飛ぶロボット兵士のひとりに憑依する。聞こえてくるのは、1943年に田辺元が京都大学で行なった「死生」の講義であり、なんとかその声を拾ってみると、どうやら「死を超克する」といったことが語られているらしい。
ここでの田辺の論は、これから戦地に行って命を投げ打つだろう青年に向けて放たれたものだという。おそらくこのシーンで意図されているのは、この田辺の言葉を胸に抱いて空から突撃したかもしれない何人もの兵士のイメージだろう。
今度は床に横たわると「地下」世界が始まり、獄中の床をじっと眺める景色が広がる。そこでは頭を右に向けると戦時中に治安維持法違反で投獄され、獄中死した三木清のテキストが、左に向くと戸坂潤のテキストが音声で流れてくる。
本来、現実とは異なるアナザーワールドを提供するVRにおいて、複数のレイヤーにまたがる世界線が、自身の身体の位置関係(正確には、VR装置の高低差)と連動するというのは興味深い。「立つ」「座る」「寝転ぶ」という身体感覚が、バーチャル世界の空間設計と奇妙な連帯を結んでいるのだ。
知という甘美を享受するのは誰か
こういった具合に、原文のテキスト+3つの空間描写という構造の中をVR上で体験する作品なのだが、正直に書くと、実際の作品体験中、ここまでの情報はほとんどわからなかった、というのが本音である。
まずどの空間でも、聞こえてくる「語り」は非常に長く、また難解な言葉が続くので要旨をつかみにくい。実際に作品を体験する中で、ここでの語りの内容をあらかた理解できた人はどれだけいたのか、甚だ疑問ではある。また先述したように、京都学派の思想自体が多くの矛盾をはらんでおり、なおかつ後世にその文脈があまり語られてこなかったため、そもそも本作が何をテーマとしているのかすらも把握しにくい。相当の歴史や哲学に精通した人でない限り、本作の意図を理解するまでにかなりの時間を要するだろう。
かと言って、「誰にでもわかるアート」というニーズを満たすことが最善策とは到底思えないし、ネット上で“映える”視覚刺激ばかりを与える作品が、一種の思考停止をもたらす状況にも私たちは飽き飽きしている。だが一方で、「一部の知識層だけが理解できることを、知識層のあいだで享受する」というモデルもまた、現代の社会的分断の亀裂をさらに広げる一因となってはいないだろうか?
この作品自体が、京都学派が京都の料亭で行っていた「知識層たちの密室」のようでもある、とは皮肉がすぎるかもしれないが、体験後の率直な感想は以上のようなものだった(そんなことを書きながら、この原稿もかなりまどろっこしい部類に入るだろうとすでに反省したりしている)。
しかし、先述のYCAMが開催したトークイベントの中でツーニェンは、「歴史をできるだけ単純化せず、少しの要素も削がないように努めた」と語っている。京都学派たちの発言内容はすべて公に発表されたものだけを扱い、それを音声に変換することで、歴史上の人物たちが何を言おうとしていたのかをそのまま伝えたかったのだという。「未完了なものを引き継ぐ媒介者でありたい」と語るツーニェンには、歴史や故人をテーマに扱うアーティストとしての真摯な姿勢が感じられた。
歴史とは、常に誰かの解釈を経て伝わるものだ。過去に起こった事実はひとつだが、その解釈は無数に存在する。ツーニェンは「歴史は生きている。過去は変えることができる」と語っている。そのとき、アーティストが恣意的に導いた解釈を辿るのではなく、過去の人物たちの「声」にただ耳をすませること。意味はすぐに理解できずとも、その空間に身を委ねること。本作のタイトルにもある「虚無からの声」は、すぐに意味をわかろうとしてしまう私たちへの、ユーモラスな挑戦なのかもしれない。
CREDIT
- TEXT BY ARINA TSUKADA
- 「Bound Baw」編集長、キュレーター。一般社団法人Whole Universe代表理事。2010年、サイエンスと異分野をつなぐプロジェクト「SYNAPSE」を若手研究者と共に始動。12年より、東京エレクトロン「solaé art gallery project」のアートキュレーターを務める。16年より、JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」のメディア戦略を担当。近著に『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』(ビー・エヌ・エヌ新社)、共著に『情報環世界 - 身体とAIの間であそぶガイドブック』(NTT出版)がある。大阪芸術大学アートサイエンス学科非常勤講師。 http://arinatsukada.tumblr.com/