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死者の復活とデータの行方
2021.03.02
データは本人を複製できるのか。稲見昌彦x川村真司×富永勇亮「D.E.A.D.」鼎談 (前編)
稲見昌彦(東京大学)×川村真司(Whatever)×富永勇亮(Whatever)
クリエイティブ・コミューンWhateverが、自身の死後のデータの扱いにまつわるプラットフォーム「Digital Employment After Death(通称D.E.A.D.)」を始動した。「AI美空ひばり」などでも顕著なように、これからは死後も個人のデータが“使える”ものになっていくのかもしれない。テクノロジーによる人間の身体拡張について研究する東京大学・稲見昌彦教授をゲストに招き、Whateverの川村真司、富永勇亮と鼎談を行った。
近年、個人データを利用して、故人を疑似的に復活させることが可能になり、多くの有名人が“復活”するコンテンツが発表されている。NHK紅白歌合戦で発表されたAI美空ひばり、手塚治虫AIによる新作マンガ、ピアニストのグレン・グールドの演奏をAIが再現など、枚挙にいとまがない。そんな時代にクリエイティブ・スタジオ「Whatever Inc.」がスタートした「Digital Employment After Death (通称D.E.A.D.)」は、自身の死後のデータの扱い方について意思表明できるプラットフォームだ。
参照記事:
死者に権利はあるのか? 死後データの意思表明プラットフォーム「D.E.A.D.」特別鼎談
死者の「復活」をどう考える? 死後データの意思表明プラットフォーム「D.E.A.D.」特別鼎談(後編)
そんな「D.E.A.D.」プロジェクトを手掛けた富永勇亮氏と川村真司氏が、各分野のエキスパートを招いて「これからの死後」を考察する連載シリーズ第2弾。今度のゲストは、東京大学 先端科学技術研究センター教授の稲見昌彦教授だ。ロボット工学と人間拡張工学の研究者であり、人間の身体性の拡張やその先にある意識と心の変化を研究。今回はデータ化によって生まれる倫理感やアイデンティティについて伺った。
稲見昌彦
博士(工学)。東京大学 総長補佐・先端科学技術研究センター教授。JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクト 研究総括。情報工学やロボット工学が専門で、これまでに触覚拡張装置、動体視力増強装置など、人の感覚・知覚に関わるデバイスを各種開発。SF漫画『攻殻機動隊』に登場する技術「光学迷彩」を実現させたことでも世界的に有名。子どものころから『ドラえもん』が好きで、「自分がひみつ道具を発明する」という思いが研究者の道へ進む原点になっているとのこと。
死から見出す倫理観
塚田有那(Bound Baw編集長/以下、塚田): 稲見先生はこの「D.E.A.D.」プロジェクトをご覧になって、どう感じられましたか?
稲見昌彦(以下、稲見):死後のデータという人類の新たな可能性を手に入れたときに、それに対して人々がどう感じるのかという点がとてもクリアで、たいへん興味深かったです。つまり、今まではSFの世界の中でしかなかったものがそろそろ可能になるかもしれない。これはまさにフィクションが工学倫理や技術倫理の俎上に乗った瞬間だと思います。
富永勇亮(以下、富永):おっしゃるとおりだと思います。
稲見:たとえば、「脳死」も作られた概念ですが、それが社会的にどう受容されていったかを考えると、やはり時間がかかっていますよね。技術の役割とは人類にとっての可能性や選択肢を増やすことだと私は思っていて、何かの解を出すというよりは、いざというときの選択肢をたくさん増やしておく。その中で何を選択するかは、個々人の意志やコミュニティ、もしくはそのときの倫理観によって決められるべきものだと思います。
新しい技術が出てきたとき、それがどんな影響をもたらすかについてはネガティブな面もよく語られます。その一方で、よく倫理や哲学的な議論で出てくる「トロッコ問題」のような究極の選択においては、われわれが日常的に考えるものでもないとも思います。もちろんクリエイターや研究者はそうした問いを把握しておくべきですが、どこまで人々と問いを共有し、コミュニケーションすべきかというところは、私もまだ悩みつつあるところです。たとえばシステムの脆弱性やハッキングの方法が発見されたときは、悪用されないように専門家のあいだですぐに共有されたりします。
川村真司(以下、川村):それを一般の方全員が知っている必要はないし、逆に知られることで悪用される率も高いと。
稲見:悪用について考えをめぐらせれば、私の研究におけるVRやテレイグジスタンス、テレプレゼンスの技術も悪いシナリオがいろいろとあるわけです。でも、それを多くの方々に語るのがいいのかどうか、倫理観として悩ましいところでもあるのかなと。一方で「D.E.A.D」では、議論ができるところまで技術が進んできたこと自体は大変興味深いかなと思いました。
川村:いきなり面白い話ですね。僕たちが「D.E.A.D」をはじめたのは、パンドラの箱を開けてしまうようなことでもあるけど、誰かがきっかけをつくらないと議論はできないと思ったからなんです。
稲見:それがまさに死というものの特徴ですよね。われわれはできるだけ日常で死というものを意識しないようになっている。「メメント・モリ」という言葉がその逆説としてありますが、死を意識しなくて済むように普段は生きてきていて、少なくとも日常においては誰にでも関わりがある話ではないと思っているんですよね。
インターネット以前の人間はもう「復活」できない?
富永:僕たちがこの発想をする原点になったのが、2019年4月放送の『復活の日』というテレビ番組でした。死者と再会し、リアルタイムで1対1で会話をするという内容で、出川(哲朗)さんがお母さんと8年ぶりに対面するという企画をやらせていただきました。(過去記事参照)
そのあと他でも、韓国ではVRで亡くなった娘と母親が再会する番組が企画されたり、「AI美空ひばり」などがNHKで放送されました。実はそのふたつともうちに一度連絡があって、どんな技術を使ったかなどを質問されました。その後はやり取りしていないのですが、『復活の日』がある程度社会に影響を与えたという実感がありました。その後も、「死者の復活」事例は世間にどんどん出てきています。かたやどれだけ技術が進んだとしても、『復活の日』で最も困ったのは出川さんのお母さんのデータがほとんどなかったことです。そのとき、生前にデータをしっかり残しておく必要が今後はあるだろうなと思いました。
稲見:選択肢の有無でいうと、今ここにお集まりの皆さんは、すでに幼少時の濃密なデータを残すという選択肢はほぼないわけですよね。つまり、インターネット到来のBefore/Afterでいうならば、残念ながらもう手遅れだったと。
富永:そうですね。僕たちはもうネット以前のデータは用意できません。
稲見:そうそう。その意味で選択肢はなくなってしまいました。今だと幼少期に幹細胞を取っておいたほうがいいみたいな話もあって、それこそ歯科の分野でも、どこまで使えるものになるかわかりませんが、乳歯の歯髄幹細胞を将来のために取っておこうといった話まで出始めているわけです。このように、幼い頃にテクノロジーを使っておかないと、後からでは間に合わないかもしれないものがある。ネット以前に生まれた世代の人たちはデータが足りなくなっていますね。
川村:それは不完全であるという意味でしょうか。
稲見:そうですね。「復活の魔法」を使うための、自分の幼少時のデータがすっぽり抜けているみたいな感じですかね。あとはそれを本人が使いたいか否か。または、周囲の人が使うかどうか、それも本人の問題ですよね。データはどこまで本人のものになり得るのかということですよね。
「自分」の存在が他者の身体に入り込む
川村:稲見先生のイメージされている「復活」は、個人を完全に復元するようなものですね。そう考えると、大量なデータを集めて解像度を圧倒的に高くしないといけない。さらに考えれば、自分が知っている「自分」以外にも他者から見た「自分」があるわけで、それらもひっくるめて生きていた「自分」が復活できるかと考えると、途方もない気もしてきます。
稲見:これは哲学者のダニエル・デネットの定義のひとつに「自分とは何か」というものがあるのですが、そこでは「自分とは、自身が直接制御できるもののすべて」と言及されています。そこから所有の概念にもつながっていて、たとえば私が学生に「ちょっとこの課題やっておいて」と依頼して実際に課題が実行された場合、その行為の結果すらも私の一部になっているとも言えるわけです。そうなると他者とやり取りをする中で、実はその相手の中にも自分の身体が侵入しているとも考えられるんですね。それは一方的ではなく、相互的に入っていく関係です。誰かが亡くなったときに「あの思い出は私の中で永遠に消えない」というような表現も、おそらくその一部だと思います。
つまり、死という概念もいろいろな考え方があって、肉体がなくなることだけなのか、それともたとえば宇宙ロケットなんかに乗って地球から去ってしまって生涯コミュニケーションが取れなくなることも死と等価の体験と言えるのではないか、そこでの本質的な違いは何かという疑問が生まれてきますよね。私はやはりインタラクティブ派の人間なので、インタラクション(相互作用)の中にこそ人間の本質があると考えます。そういう意味では、個人を復活させるものはいわゆる個人に閉じたデータだけではなくて、人との相互作用で表出するデータもあるわけです。
川村:自分のことを知る人が誰もいなくなった社会では新たなデータは得られないし価値を持たないということですよね。
稲見:つまり真の孤独ですね。社会に身の置き場がないというのは単なる比喩ではなくて、自分の分身が誰の体も入っていないわけですよね。だから何もお願いもできないわけで、誰を頼ることもできない。
人は外部と関係しながら生きている
川村:逆にいうと、それを補完することはデジタル技術において可能ですか?
稲見:相互作用できる部分が入っていれば可能です。私が「おはよう」と言ったとき「おはよう」と返すだけならプログラム上で簡単に構築できますが、そうではなくて、「おはよう」の返答に対して何かその人らしい別の返答のバリエーションがあったり、その時々の体調によって変わるなど、もう少し関数的な部分が必要ですよね。死後に残すべきものは、個人のデータも大切ですが、そうしたその人独自の関数をどう活かすかも大切です。それがないと会話ができないんですよ。その関数というのはデータから導き出すこともできて、学習によって近似させていくというのが機械学習の考え方の一つなんですよね。
富永:その組み合わせが肝心ですよね。ただ今のお話では、究極的に自分の関係するものすべてが自分の一部であるという考えに基づくと、ネットであらゆるものがつながる今においては、それらすべてを網羅的に余さず集めて、完璧な自己を複製することは可能なものなんでしょうか。
稲見:それは新しい話ではなくて、例えば映画にもなった『永遠の0』(百田尚樹)という小説は、亡くなったおじいさんの実像を知りたくて、いろいろな人に話を聞いたら全然違った話で返ってきて、孫でも知り得なかった新たなおじいさん像が浮き上がってきたという話があって。それは、周りの人たちを通して本人を浮き上がらせることでもあるし、本人自身も知らなかった人間像が見えてくることもあるわけです。
さらには、記録には全く残っていないけれども、他者にも大きな影響を及ぼした一言があったかもしれないわけですよね。私自身、学生や友人に「そんなもんこうすればいいじゃないか」とまったく意識せずに言ってしまったことが、後に人の人生を変えてしまったという反省というか驚きがあります。これは極端な例ですが、人同士のやり取りの中に、その人らしさが出てきたりするわけですよね。「人間」という言葉を改めて見直してみると、生物としての「ヒト」ではなく、人としての存在を表現するときは、「間」という字が入る、つまり社会性が介入してきます。この「間」って、たぶんインタラクションそのものなんですよね。両方があって、はじめて社会的な人間となる。言い換えればその両方が構築されない限り、「復活」はないし、その人らしさとまではつきつめられないというのが、今のところの考え方ですね。
川村:データだけではその間を埋めるものも不完全であると。
稲見:だから、クローンとかはちゃんちゃらおかしいわけですよね。
川村:あくまでも生物学的には人であるけれど、ですよね。
稲見:生物としてDNAが同じだからといって、人間の「人」の部分は再生できても、「間」の部分は再生できないでしょう。しかも、今のポストゲノムの時代におけるマイクロバイオームやエピゲノムのように、環境によって人の状態やゲノムの発現の仕方が少しずつ変わってしまうのは、常に外部とのインタラクションがあるからです。
ちなみに霜降りのお肉はエピジェネティック(後天的な遺伝子や細胞の変化)的につくられることもあるそうです。今まで黒毛牛というのは父親の牛の血統こそが重要視されていましたが、代謝インプリンティングと言われるビタミンE欠乏を人為的に起こした後に高脂肪のミルクを与えることによって、霜降り肉をつくりやすくする技術が発明されました。それでこれだけ霜降りが市場に出回るようになったという話があって、それはまさにエピゲノム修飾の話だそうなんです。もちろん、牛の霜降り肉はおいしいですが、人の脂肪が霜降りだと今度は病気になりそうですが(笑)。
川村:ソフトとハードの関係とも言えそうですね。DNAというハード部分と、インタラクションから生まれるソフトの物語というか。
稲見:DNAという生体的な部分の根幹でさえ、環境との相互作用が重要な要素を占めていますから、こうした会話や知的営みだって皆さんとの関係の中から生まれているといえますよね。
CREDIT
- TEXT BY AKIKO SAITO
- 宮城県出身。図書館司書を志していたが、“これからはインターネットが来る”と神の啓示を受けて上京。青山ブックセンター六本木店書店員などを経て現在フリーランスのライター/エディター。編著『Beyond Interaction[改訂第2版] -クリエイティブ・コーディングのためのopenFrameworks実践ガイド』 https://note.mu/akiko_saito