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2020.05.08

感染症と赤のフォークロアー民俗学者 畑中章宏の語る「疫病芸術論」の試み

TEXT BY AKIHIRO HATANAKA

人類は感染症といかに向き合ってきたのかーー?
いまあらゆる場面で議論されるこの問いに対し、かつて市井の人々が編み出した祈りと文化から民俗学者の畑中章宏が考察する。そこには、日本人が魔除けとしての祈りを託した「赤」のフォークロアがあった。民俗社会の厄除け信仰から生まれた「疫病芸術」とは?

民俗信仰が生み出してきたもの

民俗社会では、さまざまな災厄を逃れるための祈願行為が続けられてきた。災厄の種類によっては仏教の仏や、神道の神に依頼する際に、伽藍を建立したり、仏像を造営したり、社を創建したりしたのである。

日本列島に暮らす人々を苦しめてきた災厄のなかでも、感染症(疫病)は蔓延を繰り返し、大量死をもたらすこともあった。またクラスター(集団感染)が発生しなかったとしても、幼児が罹患すると命を失う可能性が高く、さまざまな気遣いがされた。

こうした疫病除けを祈願するため、民俗社会でつくられ、用いられてきたものを「疫病芸術」と名づけてみることにする。民俗信仰の所産を芸術と呼ぶにはためらわないわけではない。しかし、歴史的価値があり、技巧に優れた宗教彫刻・宗教絵画と比べても、表現力や精神性において劣るものではない。

ここではそうした疫病芸術のうち、天然痘(疱瘡・痘瘡)を除けるためにどのようなものがつくれたかを見ていくことにしたい。日本で最初の天然痘流行は『日本書紀』に記録のある天平7年(735年)とされ、仏教とともに大陸から伝わったといわれる。天然痘の流行は中世にも起こったが、江戸時代の半ばの18世紀には大流行が頻繁に襲った。

江戸時代までの日本では、天然痘(疱瘡)、麻疹(はしか)、水疱瘡(水痘)が3大大病とされ、そのそれぞれに対して疫病芸術が創作された。なかでも疱瘡は、ウイルスによって飛沫や接触により感染し、流行すれば生命の危険にさらされ、治癒しても痘痕を残したり、失明したりすることもあった。

「赤」にこめた信心

古代の日本では、「青」は死を意味する色だった。青い色はあの世とこの世の境界を指し示し、「青」の付く地名は、死者を祭る土地と結びついていた。また「白」は中世以来、差別をめぐる白山信仰とつながっていた。こうした色彩観念において、「赤」は、疫病や魔除けを表わす色だった。

魔除けの赤色が最も力を発揮すると観念されたのが、ほかでもない疱瘡を除けるためだった。日本では疱瘡に罹るのは、疱瘡神に取り憑かれることによるものだと信じられてきた。疱瘡に罹ると発疹が出てからだが赤くなるため、疱瘡神は赤いものだと連想され、また赤い色を好むと想像されていた。

そこでからだが赤く、赤色が好きな疱瘡神の気を惹くように、子どもの玩具を赤くしておくと、子どもには取り憑かないと考えたようである。さらに当時は、疱瘡による発疹が真っ赤だと、病状が軽く済むという医学上の定説があり、医学的知識と疱瘡神がひとつになって、赤い色への信心が強まったとも考えられる。

芸術以前――疱瘡除けの「まじない」

疫病の芸術領域に入る前に、疫病除けの伝承やまじないについて紹介しておくことにしたい。これらはまだ、芸術と呼べるような表現を獲得してはいないが、表現を成立させるための前提になるものである。

日本の各地で、子どもが痘瘡に罹ったとき、部屋に赤い幔幕(まんまく)を張り、身の回りのものいっさいを赤色にした。肌着は紅紬・紅木綿でつくり、12日間取り替えることを禁じた。疱瘡に罹ったものだけが赤色を着るのではなく、看病人も赤い衣類を用いた。 

広島県三原市の「玉島だるま」

東京では小さな子どもが疱瘡に罹ると、張子の達磨や木兎(みみずく)、鯛車などを枕元に飾った。張子のお守りは、桟俵を敷き、その上に祀られ、幣帛を立てたり赤飯を供えたりして、疱瘡の治ることを祈った。半月も経つと疱瘡も峠を過ぎたものとして、供えた赤飯から3粒とって紙に包み、三つ辻の角へ持っていって捨てる。この赤飯を母親が持ち帰り、疱瘡の終わっていない子どもに食べさせる。そうすると疱瘡が軽く済んだ小児にあやかることができるという。

富山市柳町では、疱瘡になったとき、周囲に赤紙で作った人形と旗を並べる。中央には赤御幣を立てた桟俵に菓子や果物を供えた。兵庫県洲本市では、狸は疱瘡の病人のところにかさぶたを食べに来る。赤い手ぬぐいをかぶっていると狸が寄り付かなくなるという。青森では、疱瘡の神の姿は赤い頭巾と赤い着物を来た子供の姿である。甘酒婆の問いかけに答えると病気になる。杉の葉を吊るすことでそれを防ぐことができる。

除災のための信心は切実なものだったが、疱瘡除けの習俗で用いられた呪具は、あくまでも道具であり、芸術や表現とまでいえるのものではない。 

祭礼と建築――疱瘡祭と疱瘡神社

疫病除けの呪的行為は、家への侵入を防ぐための家庭的なものから、共同体を守る祭りへと進化し、疱瘡神を祀る「疱瘡祭」がおこなわれた。疱瘡祭では、庭に4本柱を立て、帷幕をめぐらし、大臼をすえ、数十人の男女がはやしながら餅をつき、赤色の御幣で飾った神棚に供えた。疱瘡祭に供える疱瘡餅を惜しんで減らしたり、餅つきのとき賑やかに騒がなかったりすると病人は死亡するといわれた。

悪疫(疱瘡やコレラ)の終息を願って踊られたのが起源だと言われている。鹿児島県鹿児島市花尾町の「花尾神社」や、同県南さつま市大浦町、同じく姶良市下名などでは、かつての疱瘡流行の記憶をとどめた「疱瘡踊り」が伝承されている。

今年4月28日、鹿児島県薩摩川内市では、100年ぶりに疫病退散を祈る「入来疱瘡踊り」が奉納された。「めでたい、めでたい」などのかけ声が特徴的で、疫病の神様を「打ち払う」のではなく、「歓待して、満足して去ってもらう」という意味がある(読売新聞オンライン動画より)

また疱瘡神を祀る「疱瘡神社」が各地に建てられた。

江戸時代に疱瘡神を祀る神社は、江戸では雑司ヶ谷の「鷺明神」(現在は大鳥神社の境内社)をはじめ25社、秩父地方には10社を数えたという。鷺明神では、痘瘡は新羅からきた病であるからと、三韓降伏の守り神である住吉大明神を疱瘡神として祀ったが、疱瘡神社にはほかに「鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろう・ためとも)」や「少彦名命(すくなびこなのみこと)」が祭神となった。

鎮西八郎為朝は保元の乱(1156年)で後白河天皇に敗れて八丈島に流されたが、島では疱瘡が流行しなかったため、為朝が疱瘡を追い返したのだとされている。少彦名命は大国主命の国造りに協力をした神で、薬の祖・医薬の神とされている。

長野県諏訪郡富士見町の「若宮八幡社」には、金比羅と並んで疱瘡神の社殿があり、二間四方の小祠だが全体が赤く彩色されている。またこのあたりの集落では、正月に祀る年神様の注連縄を半分ほど赤く塗って疱瘡神を祀る風習が、長く続いていたという。

祭礼や建築はまじないに用いられた呪具に比べると、大がかりなものである。なかでも、鹿児島県の疱瘡踊りなどは個別に、表現の強度やオリジナリティを検討してみる必要がありそうだ。

芸術表現として――疱瘡絵と赤物

疫病除けの信仰表現を、視覚化・造形化し、民俗的とはいえ「芸術」の域にまで達していると考えるのが「疱瘡絵」と「赤物」である。

月岡芳年画『新形三十六怪撰』より
「為朝の武威痘鬼神を退く図」

幕末に登場した「疱瘡絵(赤絵)」は、疱瘡に罹った子どもをなぐさめるため、また疱瘡神がよりつかないように作られた玩具で、疱瘡神社の祭神にもなった鎮西八郎為朝のほか、「鐘馗(しょうき)」、「猩々(しょうじょう)」などが描かれた。

鐘馗(しょうき)は唐の玄宗皇帝の夢枕にあらわれ、病魔を追い払い治したという故事から、疫鬼を退け、魔を除く力があるとされた。疱瘡絵のほか、端午の節句の際、人形やのぼりにも魔除けとして用いられている。中国の想像上の生き物で、全身が朱色の長い毛で覆われた猩々(しょうじょう)も、疱瘡絵に描かれたり、人形に作られたりした。日本の能では、真っ赤な装束で、酒に浮かれて舞い謡う。

 

志水軒朱蘭『疱瘡心得草』より「疱瘡神祭る図」

このほか、縁起のよい「桃太郎」、「春駒」、「だるま」なども描かれていた。商売繁盛や豊蚕信仰を祈願されただるまは、起き上がりを意味し、病気回復を祈願することから疱瘡絵にも描かれた。このように、疱瘡絵は題材の性格を活かしたり、文脈を読み替えたりと機知に富み、文化的な変換を巧みに図像化されているものが少なくない。

江戸時代、疱瘡(天然痘)除けのお守りが、疱瘡絵という浮世絵。赤は魔除けの効果があるとされ、赤一色で摺られています。ミミズクは、丸い大きな目をしていることから、天然痘による失明の危険から守ってくれました。太田記念美術館は3/16まで休館中。自宅で浮世絵を楽しむために #おうちで浮世絵 pic.twitter.com/RhdUY3m76J

— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) March 5, 2020

埼玉県鴻巣市に伝承する「鴻巣の赤物」は、郷土玩具の範疇に入れられるのものだが、民間信仰と表現がうまく結びついた疫病芸術の代表的なものである。赤物は、桐の箪笥や家具を作ったあとに出るおがくずと正麩糊(しょうふのり。小麦粉澱粉)を練り固め、赤く色づけした玩具で、かつては「熊金」(熊乗り金太郎)や「鯉金」(鯉抱き金太郎)など金太郎を題材にしたものをはじめ数百種類が作られた。疱瘡除けの信心とともに、鮮やかな色彩と奇抜なフォルムが愛好され、中山道などを通じて広がり、関東地方を中心とした各地に流通していった。

疫病退散! 妖怪「アマビエ」の木像を設置 千葉 茂原 #nhk_news https://t.co/vMFdJOGoMg

— NHKニュース (@nhk_news) April 30, 2020

疱瘡絵や赤物を芸術と呼べるかどうかは、もちろん検討の余地があるだろう。しかし、「疫病を予言した」とされる妖怪アマビエが、さまざまなバリエーションで描かれている今日の状況をみたとき、民俗社会の人々が、技術と表現と知性によって、疫病を克服しようとしてきたことを忘れてはならないと思うのである。

 

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TEXT BY AKIHIRO HATANAKA
民俗学者・作家。〈感情の民俗学〉の視点にもとづき、民間信仰や災害伝承から流行の風俗現象まで幅広い研究対象に取り組む。おも著書に『柳田国男と今和次郎』(平凡社新書)、『災害と妖怪』(亜紀書房)、『天災と日本人』(ちくま新書)、『蚕』(晶文社)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『死者の民主主義』(トランスビュー)ほかがある。最新刊は『関西弁で読む遠野物語』(エクスナレッジ)。

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