WT
2020.12.22
サザエBotから「超現代美術」へ。最高傑作としての「フーアムアイ?」——松田将英のアノニズム試論
TEXT BY RINTARO FUSE
Twitterの普及初期から人気アカウント「サザエBot」と関与し、数々のインターネット・ミームを生み出してきたかと思えば、現代のデータとプライバシー問題などに切り込む「White Magazine」展を開催するなど、インターネット以降の社会を鋭く批評するプロジェクトを展開するアーティスト・松田将英。今秋、都内某所で開催された「超現代美術展」(非公開、2020)について、気鋭のアーティスト布施琳太郎が論じる。
松田将英のことを知ったのは誰かからの噂話を通じてであった。この誰かが誰だったのかは覚えていないが……2019年に神宮前のギャラリー・EUKARYOTE(ユーカリオ)で開催された個展「White Magazine」に際して、「この松田ってのは誰なんだ?」という話をどこかのカフェでしたことは覚えている。
そして彼が「サザエBot」や「なかのひとよ」、そして「ブラックボックス」展(ART&SCIENCE GALLERY LAB AXIOM、2017年)と関係していることを耳にした。こうしたなかで僕が彼に関心を持ったのは、表現それ自体ではなく、彼が誰なのか、そもそも実在するのかについて疑問を持ったからである。しかしこの疑問こそが、彼の表現を駆動するコンテンツであることをそのときの僕はまだ知らなかった。
松田将英
1986年神奈川県生まれ。ベルリン、神奈川県在住。2016年、『サザエBot』で「Prix Ars Electronica」準グランプリを受賞。以降、欧州を中心にインターネット以後の匿名性や集合知、アーティストの脱人物化を主題としたレクチャー・パフォーマンス、インスタレーション作品を多数発表。「AMBIENT REVOLTS」(ZK/U、ベルリン、2018)、「SIGNALS」(DiG Studio、ベルリン、2017)、「#LutherLenin」(Studio Hrdinů、プラハ、2017)、「TACIT FUTURES」(Volksbühne、ベルリン、2017)、ISEA(香港城市大學、香港、2016)等に参加。2019年より実名での活動を開始。主な個展に「超現代美術展」(会場非公開、2020)、「White Magazine」(EUKARYOTE、2019)。
http://masahidematsuda.com/
Artist image by Kai Yoshizawa
僕も、あなたも変わりゆくー「可塑性(Plasticity)」をめぐる思考
話は変わるが、本稿を進めるにあたって、まずヨーゼフ・ボイスというアーティストの話をしたい。
ボイスは、それまでの芸術における作品制作の範疇を超えて多様な活動を展開した。その有名性と歴史的重要性が確固たるものである理由は「社会彫刻」というアイデアに由来するだろう。これは英語では「Social Sculpture」と表記するが、ボイス自身の母語であるドイツ語では「Soziale Plastik」と記すらしい。このドイツ語にはボイスの態度が凝縮されているように思える。つまり「Skulptur」ではなく「Plastik」としての彫刻。もちろん「Plastik」に値する英単語が存在しないわけではない。それはプラスチックや可塑性、あるいは塑像を意味する「Plastic」という語だ(しかし筆者はボイスの研究者でなければ、翻訳のプロフェッショナルでもないので、ここでは「Plastik/Plastic」という語から社会と芸術の関係について考えるところに留まりたい)。
ここでもうひとり別の人物にも注目したい。それはカトリーヌ・マラブーという思想家だ。ボイスとはまったく異なる観点で、マラブーは「可塑性(Plasticity)」を核とした研究を行っている。彼女のテキストのなかで目を引くのは、回復不可能な脳損傷への思索だ[1]。それはアルツハイマーや心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの、フロイト以降の精神分析学に基礎づけられた方法では治療不可能な脳の損傷、そしてまったく他なるものへと人格が変容することへの関心に基づいている[2]。
[1] 『新たなる傷つきし者:フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(河出書房新社/2016)
彼女は『偶発事の存在論: 破壊的可塑性についての試論』において、いくつかの文学作品を引用しながら破壊的可塑性というアイデアが何を意味するのかを露わにした。例えばカフカの『変身』について「グレゴール(・ザムザ)の目覚めは、破壊的可塑性の完全な表現であるように思える」と述べている 。
それは、ある朝起きると自分の姿が醜い虫になっており、人間の声を発することすらできなくなる物語だ。マラブー曰く、「彼は苦しんでいる。自分自身であることを決してやめていないのに、その自分自身として認められることがなくなってしまったことに苦しんでいる」 。この物語が特別なものとみなされるのは、それが「形と存在の双方に関わる変質」に他ならないからだろう 。彼女がカフカのなかに見出すのは、形而上学だけでなく形而上学への批判までもが「本質と形相を、あるいは形相と外形を常に分離してきたこと」に対する、徹底的に唯物論的な地平からの批判的考察の可能性だ。そして彼女は以下のようにも述べている。
「破壊的可塑性は、他者がまったく存在しないところに、他性の出現または形成を可能にする」 。こうして露わになる可塑性の破壊的側面は「形の取得とあらゆる形の消滅、発現と爆破といった所作用が矛盾しているという点において弁証法的である」 。
こうしてボイスとはまったく異なる文脈で理論的に肉付けされたマラブーの可塑性をモデルとすることで(性質や状態を意味する接尾辞「ity」が加えられてはいるが)、松田将英の周囲にある一連のオペレーション(操作)の意味を明らかにすることができる。
まず、マラブーのテキストを書き抜くことで気がつかされるのは、破壊的可塑性についての記述がスマートフォンの発売以降の社会における人格形成のプロセスを描いているようにすら思えることだ。
それは例えば、ソーシャルメディアにおいて、生まれながらに与えられたファミリーネームをもじった文字列や、本来の名前を脱ぎ捨てて単なる名詞や既存の固有名詞を自らの人格を指示するもの=アカウント名に設定することを考えてみればいい。
そのアカウントには自らの生活の痕跡が蓄積されるが、血縁や地縁とは無関係にコミュニケーションを行うことができる。こうした交流は2020年に至ってはフェイクニュースとレイシズムの温床となってしまったわけだが、ソーシャルメディアにおいて、自らの形態と本性をタイムラインを介して形成するプロセスは破壊的可塑性のモデルと一致するのではないだろうか?
「サザエBot」は誰でもないし、誰でもある。
ここで、松田が関わったとされるTwitterアカウント「サザエBot」(@sazae_f)について考えみたい。国民的長寿アニメのタイトルを冠したこのアカウントは、2016年には20万人ものフォロワーを擁していた。そしてメディアアートの祭典である「Prix Ars Electronica 2016」のデジタルコミュニティ部門において優秀賞を受賞してもいる。その審査評で「art」と呼ばれていることからも、これは単なるSNSアカウントではなく、ひとつの表現として既に認められていると言える。ではそれはどんな「作品」なのだろうか?
「サザエBot」は、Twitter上のコピペBotのひとつとして2010年に誕生した。当時は他アカウントのツイートの転載コピペが「パクリ」と指摘され、炎上したりもしたようだ[3]。しかしその内容はコピペに限らず、2014年にはGoogleアンケートフォームを用いた『Black Tweet(#黒いさえずり)』を、2015年には『You are Me(あなたは私)』を開始する。
『Black Tweet』では、「あなたの所属する組織・企業・団体・学校などの内部告発情報を匿名拡散するためのプロジェクトです」と説明欄に記されていた。対して『You are Me』には「あなたの心の声を匿名拡散するためのプロジェクトです」と記されている。
そしてその双方のプロジェクトの説明は「Twitter アカウント『サザエBot』を通じて選出/アレンジされ、フォロワーに向けて発信されます」と続く。つまり「サザエBot」の発言は、他のアカウントによるツイートのコピペ、内部告発、あなたの心の声をはじめとしたいくつものコンテキストにある言葉、そしてオリジナルのツイートがリミックスされたものなのだ。
2014年、「サザエBot」はTEDxTokyoに登壇することとなる。正確に言えば、「サザエBot」が現実空間に降臨するために用意された「なかのひとよ」という人格がステージに立った。そこで述べられた「The World is You」という言葉は、このプロジェクトの内容と目的を象徴している。
つまり……作者は誰でもないと同時に、誰でもある。「Prix Ars Electronica 2016」における受賞に際しても、「『なかのひとよ』は誰でもなく、誰でもいい。だから『みなさん、受賞おめでとうございます』」と述べている。こうして、主体なき一連のオペレーションの結果としてのアカウントは、破壊的可塑性それ自体としてのひとつの人格を形成したのだ。しかしこうして構築された人格「サザエBot」あるいは「なかのひとよ」は、唐突に、さらなる破壊的可塑性に晒されることとなる。
[3] 『サザエBot』なかのひとよインタビュー「The World is You:世界はあなた」
法は「匿名」を無効化する
それはアートギャラリーで行われた美術展としては異常なほどの注目を集め、多数の人々を動員した『ブラックボックス』展に際してである。2017年に開催された本展において、会場に足を踏み入れたオーディエンスは何もない暗闇のなかに放置された。しかしそれと同時に、鑑賞にあたっていくつかの条件が記された書類にサインをすることが求められる。そこには「展示内容に関する事実の口外を禁止するいっぽう、絶賛または酷評する感想の投稿・公言が許され、そこに嘘の情報を含むことも良しとする」といった条件が羅列されていたようである[4]。
[4]「ブラックボックス展」とその騒動はなんだったのか? 主催者「なかのひとよ」に聞く
だがこの暗闇のなかでオーディエンスによる痴漢行為が行われたとして、被害者の大学生によって、その監督責任を問うための訴訟がギャラリーと松田に対してなされたのである。
ここで重要なことは、まず第一に「なかのひとよ=サザエBot」が、すべての「あなた」が「私」であるという構図によって、みずからが社会のなかに氾濫する悪の主体であることさえも論理的に肯定していたことだ。
しかしその構造は、裁判という形式において強制的に自と他を区別されることで……つまり人と人が被告と原告に分離されることによって取り返しがつかない仕方で壊れてしまう。「なかのひとよ=サザエBot」は、ある朝目を覚ましたグレゴール・ザムザが醜い虫になっていたのと同じように「自分自身であることを決してやめていないのに、その自分自身として認められることがなくなってしまった」のだ。
これはつまり、破壊的可塑性によって生み出された人格が、デジャビュのような出来事(accident)によって、さらなる破壊的可塑性に晒されたことを意味する。より現実的に言えば、ここで明らかになるのは、インターネットやアートを通じて新たな形式の人格を構築しても、第三者の立ち合いのもとで訴え/訴えられる関係を生じさせる法的出来事=裁判を通じて、その人格の所在が定義されてしまうことである。
この一連の記述は、起訴を、アート作品が成立するためのプロセスに組み込むことを意味しない。そうではなく、法によって駆動する社会において、「まったく他なる人格の形成を実現すること」の不可能性について僕は語っているのだ。それは例えば、マラブーが語るような脳損傷に晒されたあとで、それまでとは別の名前が自らに与えられていると認識していても、犯罪を犯して裁判の場に立たされれば以前の名前を名乗ることを強制されること。それこそが破壊的可塑性の悲劇的な側面が、もっとも際立った仕方で露わになる瞬間である。
「#」——アーティスト の「名前」に付与する作品価格
だがそれでも、そのあとで、松田将英はアーティストとしての活動を継続してきた。現在の彼が行っているプロジェクトのなかでも、ここで触れたいのは東京都内の非公開の会場で開催された「超現代美術展」で発表された『#portrait』シリーズだ。
本作は、基本的に著名なアーティストの名前を白い正方形のキャンバスにプリントした平面作品のシリーズだ。それは例えばバンクシーやダミアン・ハースト、アイウェイウェイなどである。その名前はすべてが小文字のアルファベットで記述されており、その文字列の先頭に「#」が加えられることでSNSにおけるハッシュタグとの関連をオーディエンスに想起させる。
さらにそれぞれの画面内にはNFCタグが埋め込まれているため、スマートフォンを近づけると各作品の価格などを確認することができる。その作品価格は、インスタグラム上の投稿に添えられたそれぞれのアーティスト名のハッシュタグの数によって決められた。
つまり美術史的重要性やアートマーケットにおける評価に関係なく、SNSにおけるアテンションが多いか少ないかによって、それらの人名がプリントされたキャンバスの価格は変化する。しかし本作は資本主義を相手取った芸術実践としては、そこまで卓越したものではない。アテンションエコノミーを主題として制作を行う作家は既に多数いるし、そのなかで本作は既にある経済原理を冷笑する以上の効果を認めることはできないのも事実だ。だがそれでも松田の過去の実践を省みてみるならば、このプロジェクトのなかに重要な問題提起が含まれていることに気がつくだろう。
彼は(他と比べると)唯一の無名な名前として「#masahidematsuda」というハッシュタグをキャンバスに与えたのである。これが付けられた投稿は、未だに45件しかない(記事執筆2020年11月25日時点)。つまり45円だ。しかしだからこそ、この文字列が印刷されることが意味を持つ。つまり彼は、彼の名前が有名性(Celebrity)を意味する未来に向けた投機としてキャンバスに自らの名前を与えたのだ。
さらに本作が松田の経歴のなかで重要である理由のひとつには、ハッシュタグとは、それが人名であっても、本人であるか否かに関わらず自由に使用可能であり、事実そうして利用されていることがあげられる(商標権を得ることが可能でも、それ自体に著作権はない)。インターネットという匿名性の巣窟のなかでは、先頭に「#」を加えられた人名を、本来の権利を逸脱して自由に再利用することが可能な事実。しかるに彼にとってのハッシュタグとは、有名性と匿名性が交差する地点を意味するのだ。これこそ彼が「#」に魅了される理由だろう。
有名性と匿名性のギャップのなかにある自由のシグネチャーとしての「#」それ自体を作品とすること。それは「なかのひとよ=サザエBot」の、主体=作者として定義された松田が、そのコンセプトであったアノニズムをいまだに放棄せずにいることを意味している。
アノニズム(anonism)は「サザエBot」の活動理念だった。
ーーAnon とは、サザエBotを含むこの輪郭のない運動体の総称です。これは通常インターネット上の掲示板などで Anonymous の略称・匿名を指すスラングとして用いられますが、私(たち)は「目に見えないもの・生前と死後にあるもの・未知そのもの」などの幅広い含みと、Canon(正典)/ Fanon(n次創作)の結合部の意味を孕ませています。
(Anonism 思想化するインターネット より)
こうした理念の、アーティストとしての固有名「松田将英」に基づいた実践の形式を彼は模索し続けている。そのためのひとつのテストプレイとして「#」への関心は理解することができるだろう。それは人格というものが、つねに様々な出来事によって破壊的可塑性に晒される可能性を孕んでいることとセットだ。しかし取り返しのつかない人格の崩壊を超えて、芸術のなかへ自らを投機しようとする彼の姿は、今日の社会のなかでありうべき人間性の模索として私たちに希望を与えてくれる。
これは想像に過ぎないが、何度も考えてしまう景色がある。それはグレゴール・ザムザと同じように、松田が(そして「なかのひとよ」が)、何度も繰り返し自身に対して「自分は誰だ?」と問いかける様子だ。これから作られるであろう松田将英の最高傑作は、すべての人間がその問いを口にした瞬間に、形を得て現れるような何かなのではないだろうか?そんなモノ、あるいはコトを、生み出すことが可能であるならば、それと出会うために僕は彼の活動に注目し続けたい。