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2017.02.07
NYと東京、メディアアート/ポストインターネットの抱える諸事情考察
TEXT BY CHRIS ROMERO,TRANSLATION BY RYOH HASEGAWA
メディアアート/ポストインターネットを軸にNYで活動する若きキュレーター、クリス・ロメロ。インターネットヤミ市 in NYなどをオーガナイズしてきたロメロが、3ヶ月間の東京レジデンスを通して知りえた、日本とアメリカのメディアアート事情を比較考察する。
NYを飛び出し、東京を「窓」から覗く
2016年9月、わたしは東京のメディアアート、デジタルカルチャーを鑑賞するため日本へやって来た。自分自身のリサーチとともに、ドキュメンテーションの一つの形として「(Tokyo Window Sessions)」というウェブをベースにしたプロジェクトを推敲することが目的だ。この現在進行中のプロジェクトでは、アップカミングなアーティスト、展示、そしてわたしの日本における個人的な経験のアーカイブをエッセイやインタビューで特集する。
こうした活動の先には、とりわけアメリカと日本におけるメディアアートのコミュニティをつなぐリンクを築くことを目指している。新しいテクノロジーや現代アートに対する類似性がある両国だが、未だにメディアアートに関する対話は驚くほどに分断されたままだからだ。
突然だが、ぼくたちが何かを見るとき、その対象物——たとえば、窓、扉、または鏡を「見ている」という言い方ができるだろう。しかし、いずれの見方にしてもそこには利点と欠点が伴う。
なぜかって? 窓の中を覗き込んでも、部屋の中のすべてを見ることはできないし、扉の中に入ることは可能だが、時として鍵が閉まっている。鏡は鏡で、自分を見るとともに、内省の瞬間をもたらしてくれるからだ。
したがって、プロジェクトのタイトルにある「ウィンドウ(Windows)」とは、“一時的に”東京を覗き込むことを意味している。続く「セッション(sessions)」という言葉のアイデアは、1920年代のジャズに起源を持つ「ジャムセッション」からだ。その「セッション」は、音楽を通して人種差別を克服しようとする集まりの中から生まれたものであり、わたしのリサーチもまた、メディアアートとデジタルカルチャーを行き来する中で、批評的な視点も持ちつつも、即興的でかつ実験的になると予感していたのだ。
日本とアメリカ、テクノロジーと文化の歩んだ歴史的背景
そんな「トーキョー・ウィンドウ・セッション」を通じて、わたしはたくさんの勢力的なアーティストたちと出会い、展示をリサーチし、日本とアメリカ(主に東京とニューヨーク)のメディアアートにおける、いくつかの類似と相違を発見した。
テクノロジーのシーンにおいて、アメリカと日本はそれぞれ異なる歴史を持つため、その差異はアート教育やカルチャーの雰囲気によく表れてくる。
顕著な例を挙げると、アメリカにはアキハバラのような電気街はないし、ゲームのアーケードが流行ったのも80〜90年代、携帯電話のようなテクノロジーは緩やかなペースで発展していった。ちなみに日本特有の“ケータイ”文化で、ぼくたちもよく知るのは「EMOJI(絵文字)」だ。アメリカでEMOJIが熱狂的な支持を集めるようになったのは最近のこと(*註)だが、その成り立ちについてはそれほど知られていない。
*註 2016年10月、MoMAはNTTドコモのオリジナル絵文字173個をコレクションとして登録した。
https://stories.moma.org/the-original-emoji-set-has-been-added-to-the-museum-of-modern-arts-collection-c6060e141f61?gi=1ec7c52427ac
こうした側面はお互いに持ち合わせており、言語の壁や大衆に広められるアートの種類や広められる方法を決定する文化的施設や団体によってもたらされる。
一方、ぼくはアメリカでビデオゲームやインターネットに親しみながら育ったが、たいていテクノロジーとアートは完全に分離した話題だった。ニュージャージーの小さな町を出て、ニューヨークへ移ってきたとき、はじめてわたしはメディアアートに触れた。
アートの歴史について学ぶ間、日本(もしくは非西欧)のメディアアートへの真の理解を得ることはほとんどなかった。アメリカにおける主要なアート施設は、滅多なことがなければ西欧以外のアートにフォーカスすることはなく、メディアアートともなるとさらに珍しい。言うまでもなく、この領域に関する刊行物もほとんどない。
それでも、わたしの日本やテクノロジー(多くの人がそうであるように)に対する興味や理解は、メディアの消費を通じて喚起されてきたのだった。このプロジェクトを始めるまで、わたしは秋葉原がもつ歴史的背景——第二次世界大戦、家庭用電化製品、戦後の闇市への関係を知らなかった。ある外国人の視点からみれば、単純にゲームセンターの多さやメイド喫茶の多さに驚かされるし、かなり異なった印象を受ける。
いま現在、アキハバラやテクノロジーが当たり前になった東京を考えるとき、わたしはこれらがアップカミングな若きアーティストたちの仕事や日常生活に、いかなる影響を与えるのかに思いを巡らせる。多くの点で、わたしはニューヨークではメディアアートやデジタルカルチャーが際立って目立っているのに対し、東京ではありふれた風景のなかにそれらが隠されているように感じるのだ。
アートとトレンド、市場システムの臨界点
現代アートの文脈でも、展示における主題の設定に日本とアメリカで違いがある。わたしの見解では、アメリカのメディアアーティストは東京に比べ、社会的・政治的な主題にアプローチしていることが多いのだ。
アメリカの団体や機関はすぐに新しいものやトレンドを吸収したがるが、すぐに別の主題へ乗り換えていく。最近では、ヴァーチャル・リアリティが「新たなペインティング」としてポピュラーになったり、セルフィー、ドローン、拡張現実(AR)も同様にトレンドになったりしているので、NYの商業的かつ資本主義のベンチャー企業(とりわけアートフェアによくいる)なんかが、展示物やアートにまつわる出版物、ウェブなどに影響を与え始めている。
このスタートアップカルチャーはアメリカにおいて興味深い存在であるし、メディアアートにも強い影響を与えている。しかしわたしは、スタートアップカルチャーが今のようにアートとクリエイティビティとダンスをするのではなく、むしろ「衝突」していくことにより期待を寄せている。
団体や機関に関しては、東京とニューヨークではかなり違ったアプローチがとられている。例えば、NYを拠点とするクリエイティブ・コレクティブRhizomeは、その活動の大部分がオンライン上に存在し、インターネットをベースとしたアートにフォーカスしている。また、EyebeamやHarvestworksのようなレジデンス施設は、テクノロジーを用いたクリエイティブな実験に注力する。
またNYのほとんどのミュージアムが、不定期にメディアアート展示を催しているが、純粋にアートとテクノロジーをテーマに掲げたものはあまり例がない。そうした中でも、ミュージアムとしてメディアートにおけるリーダー的存在はおそらくMoMAになるであろう。それでもなお、主題の扱い方には疑問の余地がある。MoMAには学芸員のメディアート課があるが、喫緊の問題に関しては建築課やデザイン課の方がより興味深いコンテンツを継続的に送り出しているように感じる。保存課も同様に名声高く、未来と現在の間の淵に立っている。これらすべてがミュージアムという領域で起きる一方で、メディアートに献身する商業ギャラリーがアメリカに存在することも忘れるべきではないだろう。
一方、東京において、わたしはNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]に感心させられる。定期的に開催されるグループ展示シリーズ「エマージェンシーズ!(Emergencies)」は、新進気鋭のアーティストたちの発表の場でもあり、とりわけわたしの心に残っている。こうした作品発表の場づくりは、小さなギャラリーが喜んで「リスク」を引き受けようとしたり、財政的なコネクションがない限りNYではあり得ないことだ。
また日本では、文化庁メディア芸術祭を訪れる機会があった。このフェスティバル自体はいくつかの点で問題を孕んでいるようにも思ったが、こうしたメディアアートに関わるフェスティバルが存在するということ自体が重要なことだ。アメリカでも同様のフェスティバルは出現しつつあるが、ほとんどの文化活動が民営化されているアメリカにおいて、主要な政府支援にいまいち欠けることがある。非営利な団体や組織もいるにはいるが、しばしば委員会や商業的利益に影響を受け過ぎてしまっているのだ。
日本において広く見受けられるのは、ファッションと広告のあいだで、アーティストとオーガナイザーがオープンに商業的なプロジェクトを行っていることである。日本ではオープンなものが、良くも悪くもアメリカのアートシーンは富に関して内密であろうとし続けている。商業的な事業体がアメリカではありふれた風景の中に隠れようとしているのに対し、日本では際立って目立っている。
「ポストインターネット」は誰のもの?
日本とアメリカにおいてもうひとつ意義のある話題は、「ポストインターネット」のアートが何を意味し、どのようにみられているのかを検討することだろう。
2016年10月、3331 Arts Chiyodaで開催された文化庁メディア芸術祭20周年企画展は、一部ポストインターネットに関するテーマを扱ったように見えたが、それは完全に失敗に終わった。展示では若い世代のアーティストが総じてポストインターネットであるかのような一般化を行っているように思われた。
例えば、インターネットヤミ市やIDPW(アイパス)のビデオコンテンツがその中に含まれていた。IDPWやインターネットヤミ市はインターネットから生まれた一方で、これらは西欧のポストインターネットを念頭に結成されたものではない。さらにいえば、イベントインターネットのプロとアマチュアを寄せ集めたものだ。
ポストインターネットの一般化は、わたしたち皆がお互い平等にWebに影響を受けているということを提示する。しかし現実はより複雑であり、これは誤った仮説だ。なにかをポストインターネット・アートとラベリングすることの危険性は、もしすべての新興アーティストをこのカテゴリーに収めるにしても、つぎに我々は分類のための区画を作ってしまうということだ。アーティストはほかの個人や団体が念頭に置いているものから距離を置き、積極的に自身のグループやジャンルを作るべきだ。ジャンルを物笑いの種にすることもOKであるし、それほど真剣に捉える必要はない。
究極のところ、両国においてメディアアートは末端にあるものだ。博物館のキュレーターや芸術団体のリーダーが現代のデジタル社会やそのアートとの関わりを解釈し、理解する努力をしない限り、この状況は変わらないだろう。わたしたちのメディアアートの生態系に関する欠陥についてよりオープンにすることができる「トーキョー・ウィンドウ・セッション」プロジェクトやこの文章を通じて、アートのエコシステムをよりよきものになり、生態系の外側にいる人たちの懐疑心がより少なくなることを願っている。
日本とアメリカの両国は、ミュージアムで何を展示するのかに関してかなり縄張り意識のようなものを未だに持っている。アメリカの芸術団体は多様性を持っているとった評判がある一方で、必ずしもそうとは限らない。ミュージアムが誰の、何を展示しているのかを統計的に調べてみれば分かる。わたしはしばしば、言語の壁や資金不足がコラボレーションの少なさの理由に挙げられていると感じるが、私からしてみれば貧弱な言い訳だ。なぜなら、このプロジェクトにおいてもそのような障害にぶち当たったからである。
今、世界はますます激動の時代に突入しつつあるが、キュレーターや機関・団体のリーダーに目を向け、物事をミックスさせたり、実験的なプロジェクトを創造したりするようにお願いすることが重要だ。誠実で本物のコラボレーションは悪い未来から、いい未来へと変革することができる。
「トーキョー・ウィンドウ・セッション」から見えてきたもの
さて、「トーキョー・ウィンドウ・セッション」はメディアアートとデジタルカルチャーを象徴するフォーマットの中で批評的である一方、即興的でかつ実験的になる。ウェブサイトそのものは「ウィンドウ(Windows)」、「エフェメラ(Ephemera)」、「展示(Exhibition)」という三つのセッションから構成されている。
「ウィンドウ(Windows)」
このセクションではエッセイとインタビューを取り上げる。エッセイは展示と特定のアート作品に対するディスカッションの間を漂う。アーティストへのインタビューは作品と個人的な興味についての質問を合わせた内容になっている。このセッションにはわたしが「ボーナス質問」と呼ぶものがあり、アーティストに彼らの刺激になっているデスクトップの写真やお気に入りのYouTubeの動画を送ってもらう。
「エフェメラ(Ephemera)」
このセクションではわたしが東京滞在中に収集した芸術品やデータを集めている。東京でわたしが撮ったすべてのビデオや写真に加え、ローソンのレシートや博物館の冊子のようなものまで含む。わたしはデジタルに生きているので、どんなコンテンツが保存されたりシェアされたりするのかについてよく思いを巡らせてしまう。アートにおいては、わたしたちは「作品」にフォーカスを当てるが、「作品」に影響をもたらす瞬間についてはどうだろうか?もしくはその外側で起こることについては?一人の独立したキュレーターとして、わたしの作品とパーソナルライフは混成したものであり、それをシェアしたいと望む。魅力に溢れ、暖かく、時折奇妙なプロジェクトを創り出すことがわたしにとっては重要なのだ。
「展示(Exibitions)」
「ASDFGHJKL;’」というタイトルの展示が創られた。(わたしがいたスタジオの空間では常に変化していたが)二つのフォーマットで展示されていた。
東京滞在中、わたしはこの展示を3331 Arts Chiyodaを会場にオーガナイズした。アメリカと日本のアーティストをフィーチャーしたこの展示では、それぞれのアーティストが異なるジャンルや主題を持ち寄った。それによって、アート、テクノロジー、デジタルカルチャーを取り巻く新たな探求を喚起することを企図したのだった。
インターネットスラングである「ASDFGHJKL(「超ヒマ」の意)」から名前をとった展覧会タイトル「ASDFGHJKL;' x あqsうぇdrftgyふじこlp;@」は、日本とアメリカの台頭しつつあるデジタルアーティストによる展示だ。
展示には東京から3組、NYからは4組のアーティストが参加した。これらのアーティストの選出にはメディアアートの多様性を伝える意図がある。(英語の)「ASDFGHJKL」もしくは(日本語の)「あqsうぇdrftgyふじこlp」は、水平にキーボード上をなぞる行為から来ている。このフレーズがタイプされるとき、叫びが定義されるかのようである。困惑、失望、混乱といった作用によるものだ。
キーボードがあり続けるかぎり、新興アーティストはインターネットやデジタルカルチャーを創造性の源泉として用い続ける。このようにしてわたしが展示のタイトルをつけることになった背景には、アメリカと日本のメディアアートコミュニティのつながりの希薄さに対するわたしのフラストレーションと叫びがあった。
もしテクノロジーがわたしたちの進化を先導するならば、わたしたちは(展示、研究、実験を通じた)アメリカと日本の間のやりとりに行き詰まっていたのだ。より一般化していえば、西欧が非西欧の場所に対してということ。もしデジタルが現代アーティストの作品の中やわたしたちの日常生活に埋め込まれるならば、「ASDFGHJKL」のような用語が出てくる。「リージョンコード」(デジタルコンテンツが使用される地域による制限)について考えてみよう。たとえば、いくつかのアメリカのYouTubeチャンネルは日本で視聴することができない。この展示の場合、叫びはリージョンコードの感覚を受け入れることなのだ。
小林健太の作品はデジタル写真、iPhone、MacBook、スクリーンショット、そしてプリクラ機のようなさまざまなツール用いる。彼の生活、彼自身、そして彼を取り巻く周りの人々をキャプチャーするためだ。写真への健太の介入は画像、フォトショップのフィルター、またはデジタルグラフィックスの間にある境界を拡張する。絵と写真のクロスオーバーとして、彼の作品はデジタルとリアルが混合した新しい世界のポートレイトなのだ。
寺西望は福島出身の写真家であり、デジタルアーティストだ。彼女の作品の多くは福島での地震体験に影響を受けている。彼女のデジタル写真シリーズ「The Regeneration of Complex Societies」では福島の地震を題材に、デジタル編集を活用しながら高く重なるくらいの量の人、場所、物のスタンプをコピーする。望の新作シリーズ「Health Freak」は身体イメージを参照し、彼女にとって初めて3Dアニメーションのツールを使った作品でもある。
マルチメディアアーティストのRAFiAはGIFアニメーション、セルフィー、音を用い、写真、映像操作、絵を融合させた独特な視覚的美を創出している。ほとんどいつも彼女自身を主題に置き、喜び、トラウマ、神々しさ、人間らしさのバランスのとれた視覚的に目を引くイメージを創り出しているのだ。
もともと上海出身のWang Yefengは3Dアニメーションを専門的に扱い、しばしば奇妙でシュールな世界観を創り出している。彼の最新アニメーションである「The Drifting Stages」は原作のポケモンアニメの「ポリゴンショック」にインスパイアされた、脈打つ赤と青の背景を特徴にしている。数々の物が彼が人生で積み重ねたこと、上海とニューヨークの間の彼の強制退去に関するコメント、そして部屋を埋め尽くした。
Terrell Davisは雑然としたテクノロジー、消費者製品、植物、ジャンクフードから成る静的なテーブル面の超現実3Dレンダリングを創り出す。彼のイメージによるハイパーリアリズムはポップカルチャー、消費者主義、現代生活のスナップショットを描き出す。彼の作品における光を放つ配色と彩度は、わたしたちがよく使うにも関わらずあまり注目しない物に光を当てる。
Daniel Johnsonはしばしば作品にアプロプリエーションと写真を用いる。ニューヨークのインターネット ヤミ市のために作られたビデオが展示された。彼はイベントで誤解を生みかねないタイトルのDVDを売った。買い手はハリウッド映画を購入したと思うかもしれないが、実際のDVDの中身は彼が退屈な作業を行っているショートクリップになっている。
こうしたアーティストとの仕事の中で、ふと私は両国のメディアアーティストの間に何らかのパターンを見出せるかと考え込んでしまった。アメリカにおいてはより多くのメディアアーティストが3Dアニメーションのツール、バーチャル空間、そしてデータで実験を行っていると気づいた。一方、日本ではオリジナルでかつ優れたデジタル写真、2次元効果、物理的なマテリアルのリライトの活用だ。わたしの望みは、今後より多くの両国のメディアアートコミュニティのコラボレーションをみることだ。
2016年12月、私はアメリカに帰国した。母国がイデオロギーの面で後退するという恐ろしい局面を迎えているが、わたしにとってはプロジェクトを続行し、ロケーションに拡大するモチベーションになっている。今後数カ月、「トーキョー・ウィンドウ・セッション」のコンテンツをアップロードしていく。2017年9月には、このプロジェクトを韓国に拡大し、国立現代美術館に拠点を構えようと思っている。
そのあとは再び日本に戻り、キュレーション活動を続けたい。現在、日本語を学習しているので、後々は「トーキョー・ウィンドウ・セッション」を翻訳したいとも考えている。今こそわたしは、真に意味があってタイムリーなものを創り出す機会と責任がある。これを読んでいるかもしれない気鋭のアーティスト、未来志向の団体、またはレジデンシー・プログラムとコラボレーションすることを期待する。
Special Thanks: Carol, Eri, Exonemo, Fiona, Luis, Glenn, Shirin, Shunya, Yosuke ~ and many others
CREDIT
- TEXT BY CHRIS ROMERO
- キュレーター、ライター。NYを拠点にメディアアートやデジタルカルチャー領域で活動する。New York Universityを卒業後、MoMA、Moving Image Museumなどの文化機関に勤務。近年のプロジェクトにインターネットヤミ市 in NYのオーガナイズをはじめ、トーキョ・ワンダー・サイトのレジデンスや、3331 Arts Chiyodaでの企画展がある。2017年9月にはソウル国立近現代美術館の The Wrong Biennialにおいて、オンライン展示企画を計画中。拠点のNYでは、Bitforms GalleryやKnockdown Centerでキュレーション、 The New York Times、The Huffington Post、Hyperallergicなどで執筆活動を行う。 http://www.romerochris.com/