WT
2017.03.22
こころを軸に情報技術を設計する。ドミニク・チェンの日本的ウェルビーイング実践(前編)
TEXT BY RYOH HASEGAWA,INTERVIEW BY ARINA TSUKADA
AIなどの情報技術がますます普遍化していくいま、心という数値化できないものを情報技術はどう扱えるのか、ひとがよりよく生きるとはどういうことかをテーマとした1冊『ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社)が今年1月に出版された。監訳者を務めたドミニク・チェン氏にインタビューを行い、日本における「ウェルビーイング」のこれからを尋ねた。
最近何かと話題の「マインドフルネス」といった言葉をご存知だろうか。たとえば、Googleが開発し、世界のビジネスリーダーの間で実践されている「Search Inside Yourself(SIY)」は、マインドフルネス思考に基づいて設計され、心と思考力を科学的アプローチで強化することを目的としたプログラムだ。そのほかにも、情報技術を先導するAppleやFacebookといった巨大グローバル企業がこぞって社内プログラムにマインドフルネスを取り込もうとしている。
また、ハードやソフトに関わらず「UIUX」という概念の必要性が叫ばれてから久しいが、昨今の情況を鑑みると「ユーザービリティ」がいつの間にか「最適化」に取って代わられているような印象が拭えない。射幸心を煽るソシャゲの課金圧力や、誤情報を含みながらコンテンツ量産がなされたことで問題になったキュレーションメディアの問題は、その一つの飽和点を示していたと言えるかもしれない。「脱真実(Post-truth)」時代と呼ばれるいま、私たちはウェルビーイングをいかに再考していくべきなのだろうか?
日本的な「ウェルビーイング」の探求
ドミニク・チェン
1981年生まれ。UCLA Design/MediaArts卒業。博士(学際情報学、東京大学)。2008年度IPA未踏IT人材発掘・育成事業でスーパークリエータ認定。(株)ディヴィデュアル共同創業取締役、NPOコモンスフィア理事。2004年よりクリエイティブ・コモンズの普及に従事。近年はプライベート写真メッセンジャー「Picsee」(iOS)、「シンクル」(iOS/Android)などのスマホ用サービスの開発を手がける。主な著書に『インターネットを生命化する~プロクロニズムの思想と実践』『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』など。2015年度NHK NEWSWEB 第四期ネットナビゲーター、2016年度日本デザイン振興会グッドデザイン賞「情報と技術」フォーカスイシューディレクターを努める。
今回、『POSITIVE COMPUTING: Technology for Wellbeing and Human Potential』(MIT出版)の監訳をされたきっかけを教えてください。
ドミニク:昨今、アメリカをはじめとする欧米では「ウェルビーイング」や「マインドフルネス」といった心理的な概念が重要視されています。何らかのサービスやシステムを開発するとき、またはチームで仕事をするとき、人間の精神のより良い状態に重きを置いていこうとする考え方です。そうした概念にまつわる本はすでに日本語で何冊も翻訳されていますが、その一方で、それらが今日の情報技術とどのように関係しているのかを体系的に論じた本はこれまでありませんでした。
また、ともに監訳を務めた渡邊淳司さんは、東大の学際情報学府時代から西垣通先生のゼミに通い、一緒に研究会をやってきた10年以上の盟友です。僕らの共通する問題意識にあったのは、昨今「ウェルビーイング」や「マインドフルネス」といった概念が、日本の禅に通じる仏教思想や中国、インドも含むアジアの哲学的な概念を元に作られているということでした。そもそも日本にあった文化的価値が、西洋のフィルターを介し、一周して日本に再びインポートされている。しかし、淳司さんも僕もお互い日本で活動し、日本の文化や風習が身体化された環境にいる中で、逆輸入ではない概念として日本特有の精神性をもう一度科学的に理解した上で、そのための設計思想のようなものを作れるのではないかという提案をしたんです。
そうしたなかで、本著『Positive Computing: Technology for Wellbeing and Human Potential』を見つけて、「これが僕たちの求めている議論のスタート地点になる」という興奮のもと、BNN新社さんから翻訳させていただいたのが経緯になります。
『Positive Computing: Technology for Wellbeing and Human Potential』
著: Rafael A. Calvo and Dorian Peters
資料を漁る中で、金字塔的な一冊があったことが出発点になったんですね。
ドミニク:たとえば淳司さんの場合は触覚インターフェース、僕の場合はソーシャルメディアや自社で作っているアプリケーションを扱っていますが、いままで別個として考えられていたものを包括的に考えていくプラットフォームとして、この本は関連する心理学的研究を網羅的に提示しており、情報技術のデザインとの関係性についても体系的に論じています。この本を始点とすれば、日本やアジアに固有のオリジナリティとリアリティを探っていけるのではないかと考えました。
そして、この本の翻訳を始めたのとほぼ同時期に、JST/RISTEXが始動する新たな研究領域プロジェクト「人と情報のエコシステム(HITE)」の公募を発見し、「日本的Wellbeingを促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」というプロジェクトを淳司さんや大阪大学の安藤英由樹さんと一緒に立ち上げました。
「人と情報のエコシステム」とは、AIなどの情報技術が加速度的に発展する社会に向けて、テクノロジーと人間との関わり方や、そのガイドラインを築いていこうとする研究活動を支援するプロジェクトですよね。
ドミニク:この研究領域は慶応義塾大学の国領二郎先生が総括されているのですが、その応募要綱の中に直近の関心に触れることが書かれていたんです。たとえばアメリカにはイーロン・マスクやピーター・ティールといったIT業界の有力者が出資する「OpenAI」というAI研究の非営利組織であったり、イギリスには『Super Intelligence』の著者ニック・ボストロムたちが中核となってAIなどの情報技術の社会的リスクのアセスメントを行う「Future of Life Institute」などがあり、十分なファンディングのもとで情報技術のブラックボックスを社会に開いていく動きがあります。
対して、日本ではこうした動きがまだまだ弱い。冒頭で触れたように欧米から逆インポートするモデルになっているのが現状といえます。それであれば、日本においても問題意識を共有できる人々を集めて領域を盛り上げていくべきではないかと思いました。
そうした領域横断的な議論を先行しているのはやはりアメリカなのでしょうか。
ドミニク:シリコンバレーにおけるテクノロジーの進化に付随して、膨大なお金が動いています。その動いたお金の一部がNPOに落とし込まれ、絶妙な自浄能力が働くといった不思議な力をアメリカは持っている。たとえば今のアメリカの政治的状況に対しても、報道やアカデミアなどからしっかりとカウンターの力が機能していますよね。
お金の流れが民間を中心に発生しているということでしょうか。
ドミニク:民間と同時にやはりアカデミアのプレゼンスが強いと思っています。アカデミアからちゃんと行政に対するフィードバックが働いている。本著にも登場しますが、アメリカの法学者キャス・サンスティーンと経済学者リチャード・セイラーによる「リバタリアン・パターナリズム(libertarian paternalism、自由至上主義的家父長主義)」という理論を、国家が行政レベルでウェルビーイングをいかに推し進められるのかということの議論のために援用したりしています。実は日本でも、僕も参加している経産省の有識者会議でまさにこうした話を始めているところです。
ヨーロッパではどういった動きになっているのでしょうか。
ドミニク:ヨーロッパの善し悪しでいえば、やはり伝統的に哲学的な批評性を持っている社会という側面が強いですね。たとえばインターネットに関する法制度にも「忘れられる権利(right to be forgotten)」をはじめ、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazonの頭文字を並べた四大企業を表す言葉)に国家レベルで対抗していく気概があります。しかしながら最新の技術的な潮流はアメリカから出てきますので、後出しだけではなく、技術的な素地に基づいて抵抗力を醸成する必要があると僕は思います。
「達成(アチーブメント)」に囚われない新しいテクノロジー規範
もう少し具体的に、本書で語られている「ウェルビーイング」の概念について教えていただけますか。
ドミニク:この本ではウェルビーイング、つまり心がいきいきとするとはどういう因子に分解できるのかという議論が多く紹介されています。その中でも著者たちが立脚しているのは、「PERMA - ポジティブ感情<Positive emotions>、没頭<Engagement>、関係性<Relationship>、意義<Meaning>、達成<Achievement>)」というモデルです。これは、今まで「幸福(happiness)」という単一の指標でみていたものを、マーティン・セリグマンとミハイ・チクセントミハイが五つの独立した変数で定義しなおしたものです。ただ、これらは議論の頭出しとしてはとても有効なのですが、問題も孕んでいます。
そもそも、こうしたポジティブ心理学に基づいたアプローチは、個人主義的な発想によるもので、一人ひとりの精神の幸福度を独立して高めようとしている。一方、日本やアジアにおける集団主義的な文化のなかでは、それだけではうまく働かないことも多い。そのことを論じている論文もいくつかあります。
また先日、サンフランシスコにある禅センターで指導者の方とお話させていただく機会がありました。「GoogleやAppleが社内に瞑想の時間を取り入れるなどして、マインドフルネスの状態に興味を持っていること自体はいいが、それを経た上での最終的な達成感(アチーブメント)に囚われすぎており、それ自体は非常に非・仏教的である」ということを淡々とおっしゃっていたのが印象的でした。
では、どのように「ウェルビーイング」を実行していくのがいいのでしょうか。
ドミニク:『NewsPicks』編集長の佐々木紀彦さんは、最近「メディア論は終わった」と書かれていました。彼が言わんとするのは、議論の素地は出尽くしているので、あとは試行錯誤し、どう実装していくのかということだと理解しましたが、僕は「その通り」だと思います。技術だけが先行してもアセスメントができないし、アセスメントばかりしていても技術は作れない。そのため、車の両輪のようにバランスをとりながら、それぞれの地域で最適なものを目指すのが良いと思うんです。
いまのウェブサービスやスマホアプリなどの発展モデルを考えると、いかにアテンションを高めるかに焦点が当てられています。そのためにマインドハック的なUIを作ったり、プッシュ通知を送ったりして、「こっちきて、こっちきて」といった執拗な勧誘を行っている状態です。ユーザーの過剰な中毒性に頼らないビジネスモデルが成熟する必要があると思います。
また、かねてより「ソーシャルゲームは射幸心を煽り、中毒性を生む」といった単純な批判があります。しかし、ウェルビーイングを促進するソーシャルゲームの作り方もあり得ると僕は思っています。個別の事例にとどまるのではなく、広く適用できる設計法の研究が進んでいくことで、テクノロジーに密接に結びついた新しい規範ができると思います。
そうした視点はウェブやゲームだけには限らないですよね。
ドミニク:たとえばフランスでは、実際のモデルよりもPhotoshop加工で痩せてみせるファッション広告に規制をかけるという議論が数年前より起こっています。タバコのパッケージに肺がんのリスクを明記しなければならなくなったように、「この広告はフォトショップで加工されています」という具合に警鐘を鳴らすと。
当然、規制をかけることに対しては慎重であるべきですが、上記の一例においては、歪んだ現実像を世の中に蔓延させることに対する正義のビジョンがあると僕は思います。人の意識や心理状態は簡単にハックされてしまう。だからこそ、多様な価値観を社会でしっかりと共有し、実装していく。その言語がまだ足りていないと感じます。
テクノロジーは「自律性」をデザインできるか
この本のターゲットとなる読者はどんな領域を想定されていますか?
ドミニク:ひとつめは、いわゆる「組織」だと思います。会社や研究グループ、さらにいえば家族も組織です。どの社会的ヒエラルキーに属していたとしても、これからは情報アーキテクチャが与える影響やヒエラルキーが作られるプロセスを見つめるシステム論的な思考を万人が持っておかなければ、個々人の自律性が失われてしまうのではないかと思います。
また、ウェルビーイングの思考をより実際的な場面で生かせのは、テクノロジーに関係するデザイナーだと思います。その意味でも、本を訳するなかですごく悩んだのが、「デザイン(design)」という言葉の訳の使い分けです。原文では「デザイン」という言葉が多く使われますが、日本語の意味にはまらない場合、意識的に「エンジニアリング」と訳する場面もありました。
システム論的思考がないと「自律性」が失われるというのはどういう意味でしょうか。
ドミニク:この本の中では「自律性(autonomy)」という言葉が何度も強調されています。そのわかりやすい例として、全盲のピアニスト、レイ・チャールズの伝記映画の中の、少年時代のエピソードが出てくる。彼の母親は、ある時転んでしまった息子に対して手を差し伸べなかった。それは、彼が全盲者としてひとりで生きていく力を身に着けて欲しいという親心を描くシーンです。このことが示唆するのは、こうした親にとっての心情的に難しい判断を、情報設計者も向き合うときが来ているということです。すべてをお膳立てすれば、技術依存になり、自分で判断したり、価値を内的に醸成する上での自律性は失われてしまう。では、自律性をはどうすれば育めるのか。またこの問いは、コミュニケーションを設計する広告やマスコミ業界の人にとっても有益だと思いますね。
とりわけ日本は何でもサービス過剰で、メディアも広告も「わかりやすいもの」に傾倒するし、その結果としてユーザーがパッシブ(受け身)の状態になってしまう側面があると思います。そうではない視点からのコミュニケーション設計も考えられるということでしょうか。
ドミニク:わかりやすいものへの傾倒は日本だけではなく、グローバルな動きだと思います。その上で、日本には日本ならではの方法があると思っています。訳しながら思ったのは、この本の著者たちが研究者的な意識を失っていない、正気を保っているということです。それは自分たちのやり方が絶対ではないという態度が貫かれているからです。最終章の「警告、考慮すべきこと、そしてその先にあるもの」では、様々な課題が言及されています。ただ、この本に書いてあることのみに従うのではなく、むしろこれを叩き台にして、自分たちの価値観を、まさに自律的に構築してくことが必要だと思います。その試みのひとつが、先ほど述べた僕たちの「日本的ウェルビーイング」の探求なのです。
後編へ続く。
書籍情報
『ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社)
ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ (著)
渡邊淳司、ドミニク・チェン(監訳)
木村千里、北川智利 、 河邉隆寛、 横坂拓巳、藤野正寛、 村田藍子 (翻訳)
CREDIT
- INTERVIEW BY ARINA TSUKADA
- 「Bound Baw」編集長、キュレーター。一般社団法人Whole Universe代表理事。2010年、サイエンスと異分野をつなぐプロジェクト「SYNAPSE」を若手研究者と共に始動。12年より、東京エレクトロン「solaé art gallery project」のアートキュレーターを務める。16年より、JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」のメディア戦略を担当。近著に『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』(ビー・エヌ・エヌ新社)、共著に『情報環世界 - 身体とAIの間であそぶガイドブック』(NTT出版)がある。大阪芸術大学アートサイエンス学科非常勤講師。 http://arinatsukada.tumblr.com/