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2018.06.26

ウェルビーイングを日本視点で考える。ドミニク・チェン、石川善樹らの参加する研究会レポート

TEXT BY NORIHIKO KAMAYA

SNSやAIなどの情報テクノロジーが渦巻く現在、わたしたちの「ウェルビーイング(精神的により良い状態)」とは何だろうか? その解は、欧米輸入の概念ではなく、日本的な感性の土壌から見出すことはできないか? 

これが「日本的Well-being」研究会の主たるテーマである。Bound Bawではおなじみの情報学研究者ドミニク・チェンをはじめ、認知科学、コミュニティデザイン分野から、弁護士、能楽師、住職まで非常に多様なメンバーが集ったシンポジウムの1日をレポート。

ウェルビーイングとは何か?

3月某日、港区と慶應義塾大学が共同で運営するコミュニティスペース「芝の家」にて、ジャンルもばらばらな研究者たちが集まってきた。この研究会は前回の記事でも紹介した、JST/RISTEXによる研究支援プロジェクト人と情報のエコシステム(HITE)で採択された、「日本的Well-beingを促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」プロジェクトの一環として発足したものだ。

最近よくメディアにも登場する「ウェルビーイング」という言葉だが、辞書には以下のように記されている。

現代的ソーシャルサービスの達成目標として、個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念。1946年の世界保健機関(WHO)憲章草案においては、「健康」を定義する記述の中で「良好な状態」として用いられた。最低限度の生活保障のサービスだけでなく、人間的に豊かな生活の実現を支援し、人権を保障するための多様なソーシャルサービスで達成される。”(出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」)

つまりWell-beingとは、身体的、心理的に良好な状態が個人の努力によるものではなく、社会との関わりから醸成されていくべきだという、社会的な意志を含んだ概念なのだ。

私たち人間の身体のかたちや機能は原始時代から数万年間ほとんど変わっていないと言われるが、文明の発展によって周囲の環境が劇的に変わったのは確かだ。その環境変化に適応しようと、身体の使い方も変わっていくのは自然なことだろう。東京で電車に乗れば周囲の9割の人がスマホ画面を見ているような現在、毎日の生活で情報技術から離れることは困難だ。そのとき、情報と人間の距離感が私たちのWell-beingに強く影響することに疑いはない。

例えば、“既読スルー”を気にしたり、投稿のいいね数に一喜一憂したりする「SNS疲れ」もあれば、有名人の不用意な発言が大炎上を招く現象は後を絶たない。また、「フィルターバブル」と呼ばれるように、どれだけ多くの情報がタイムラインに流れていたとしても、それらはあくまで自分のコミュニティ内部のことであり、興味のない物事や他者への関心が向かず、結果としてトランプ政権を生み出すような政治的・社会的分断を引き起こしている。Facebookの個人情報漏洩問題も記憶に新しいだろう。

そうした時代におけるこの研究会の目的は、アプリやソーシャルサービスの設計において、人々にとって「Well-being」な状態を維持するための技術開発のガイドラインを策定することだ。そしてまた、その解を「日本的」な感性の土壌から見出そうとしている。

うま味にたとえる、日本的ウェルビーイング
石川善樹(予防医学研究者)

登壇者の1人目は、予防医学研究者の石川善樹氏だ。日本とアメリカでの研究経験をベースに、世界各地のWell-being研究の動向について言及された。

まず、世界各国の人生満足度(主観的Well-being:SWB)を比較すると、日本人は全体の2割しか人生に満足感を感じていないという。1位はデンマークで、最下位はトーゴである。この結果をそのまま受け入れれば、デンマークには最高に幸せな人が多く、トーゴには不幸な人ばかりのように見える。

しかし石川氏は、この調査結果にむしろウェルビーイング研究の行き詰まりを指摘する。というのも、「一般的なウェルビーイングの尺度は、西洋の研究者や企業によって作成されており、非常に西洋的な思考に偏っているのではないか?」と。

石川氏は、西洋・東洋における幸福度の違いを、砂糖・脂肪・うま味からたとえた。西洋料理は砂糖や脂肪を多用するものが比較的多いが、それは生理的に欲される即時的・増幅的な喜びなのだという。対して東洋の料理は「うま味」が決め手だ。うま味のように、じわじわとした充実感を伴う学習的・経験的な発見を伴うものが、東洋的な幸福度ではないかというのが石川氏の論だ。

「日本的な幸福感とは『色々あったが、それはそれで良しとしよう』といった、時間をかけてこそ得られる知識、経験の積み重ねが生む幸福感。経験によって過去の記憶の意味づけを変えるメタ的な認知のしかたもまた、日本人の幸福感を特徴づける重要な要素でしょう」と石川氏は語る。

文化だけでなく、個人間でも幸せのかたちはそれぞれに違う。だから、本人は幸福感を感じていても、他者からは低く見積もられてしまう場合もあるだろう。また、いま感じた不幸せも、明日の出来事次第で幸せと感じうるかもしれない。欧米を中心に始まった画一的なウェルビーイングの研究・調査は、そのような他文化、個人間の違いをあまり考慮されずに標準化され、世界各国で調査が行われてきた。しかし文化圏や個人に合わせた尺度をいかに取り込んでいくかが次なる課題だ。

メディアの考古学から見えてくるもの
飯田豊(立命館大学/産業社会学部准教授)

飯田豊氏は、「メディアの歴史・考古学」の視点からテレビをテーマに語った。かつてのテレビに台頭したインターネットの普及は、YouTube やニコニコ動画といった新たなメディアが生まれ、送り手と受け手の選択の自由を劇的に高めた。ところが、テレビ的なものはインターネット技術に伴って複雑化し、ある種の行き詰まりの状態にあるという。このようなメディアの行く末に対して、飯田氏はこれまでのテレビ史におけるメディア技術の「敗者の歴史」を顧みることで、未来に生かせる可能性を探っている。

「JOAKによる機械式テレビジョンの公開実験/出典:『ラヂオの日本』1929年6月号」
「早稲田大学の機械式テレビジョン(1933年)/出典:篠原文雄『凛として : 名物教授一代記 TV開発の川原田博士』(新興出版社、1990年)」

1920年代の日本で、展覧会に登場した最初のテレビは、穴からのぞき込むものだった。その後1930年代にはスクリーンタイプへと進化し、なんとテレビ電話も同じ頃に開発されていた。ただし、当時のテレビ電話は一方的に相手を監視する様式で、台湾など植民地での利用を促進するショウケース展示が多かったという。私たちがいま良く知るテレビの姿に収束するまでの試行錯誤は、こうした一般への展示を通じて展開されていた。

戦前にデパートなどで行われていた巨大なテレビの公開実験を想像してみると、当時の様子は身体的な一体感や、見知らぬ人と大勢で共鳴するような盛り上がりがあったに違いない。

地域情報を発信するケーブルテレビにも興味深い歴史があった。岐阜県にて、1963年に町民がボランティアで作り上げた「郡上八幡テレビ」は初の自主テレビ放送だという。また、静岡県下田市と東伊豆町に存在するケーブルテレビ局は、地域ジャーナリズムの原点とも呼ばれる。東伊豆町の放送局は70年代、食堂と食堂の間にある非常に狭いスペースで、まちの人の話し声や子どもの泣き声がするような小さな空間から発信されていた。建物の前は海で、その日の天候にまつわるニュースは漁港にたずさわる人びとにとって大きな需要があったそうだ。「これもコミュニティデザインの一事例ではないか?」と飯田氏は読む。

さらに、岡山の「津山放送」は、当時のケーブルテレビとしては型破りで、参加型だった。「私のテレビ」というコンセプトで、飛び入りで誰が来ても大歓迎。6時間くらいやって、疲れたらやめるといったような具合で、1976年から90年代まで行われていた。「2007年にUstreamが出てきたときの状況に近い」と会場からコメントがあったが、飯田氏によれば、あるメディア媒体が時代と共に消えても、そこで培われた文化はまた新たなメディア媒体に移行しても継承されていくことが、過去のメディアの歴史を見ていくとよくわかるという。

ドミニク氏はウェルビーイングとメディアの関わりという観点から「従来の情報の“受け手”は、“送り手”の目線を持ってメディアに関わることが今後ますます大事になってくる」という主体的なメディアとの接し方を提案する。すでにニコ動やYouTube、あるいはニュース番組へのTwitterを通じたコメントなど、自身も情報の発信者になるチャンスが増えているがまだまだ浸透していない。生活者が自由に送り手として関われるメディアの存在は、社会と個人の関わりをより豊かにしてくれる可能性を持っているが、飯田氏は今後の課題として「送り手にリテラシーを押し付けない仕組みが重要」だと言及した。

瞑想中の脳はどう活動している?
日和悟(同志社大学/生命医科学部医情報学科助教)

脳の活動状態から、マインドフルネスやウェルビーイングを探る方法もある。認知神経科学を専門とする日和悟氏は、fMRI(磁気共鳴機能的画像法)を使って瞑想中の脳活動を研究している。

その測定における重要な指標は、脳領域間で形成されるネットワークの活動だという。ネットワークとは、ある脳領域間で直接的につながっているのではなく、ある状況においてどれだけ同期して活動していたか、という脳領域間の関係性を表している。統計的に有意に同期して活動した領域同士は、ネットワークが形成されていたと仮定的に見なすのだ。研究では、ネットワークを参考にして、その活動パターンも探ることができる。

瞑想の熟練者(本研究では、瞑想が出来たかどうかは自主報告)の脳活動を見ると、瞑想中にだけ活動する特有の傾向がみられた。一方で、熟達者の中でもそれぞれに脳活動パターンの強弱似や持続度が異なり、明らかに個人差が表れていた。日和氏はこの脳活動パターンの違いは、瞑想の指導者によって形(かた)が異なり、瞑想のやり方がそれぞれに異なることを反映していると考察する。さらに、瞑想の個人差が「脳活動の個人差」にあらわれることに着目し、さまざまな瞑想の形の脳活動パターンを集めることで、集団のデータをひとまとめにした解析からは見えてこない結果が期待できるという。あくまで進行中の研究で、暫定的なデータではあるが、瞑想の熟練者の脳活動パターンが明らかにされれば、初心者はそれを参照しながら自身の瞑想トレーニングをブラッシュアップすることも可能になるだろう。脳活動以外のマインドフルネスの指標について、安藤英由樹氏(大阪大学大学院)より質問があったが、日和氏は唾液など生理的なデータも参考として同時に集めており、瞑想を脳とからだの両面からひも解こうとしている。

「このような研究成果を、自身の内側を知る健康診断のように使えるかもしれない」と日和氏は提案する。将来もしウェルビーイングの人間ドックなる診断が行われるとすれば、脳活動の可視化はマインドフルネス度合いのチェック項目に入るかもしれない。

コンゴの発話法「ボナンゴ」から得た「共在」の感覚
木村大治(京都大学大学院/アジア・アフリカ地域研究研究科教授)

文化人類学者の木村大治氏は、自身のフィールドワークの経験から、「共在(共に在る)感覚」を提唱した。木村氏は1986年以来、コンゴ民主共和国ボンガンドという村のフィールドワークを行ってきた。そこで観察された「ボナンゴ」と呼ばれる特異なスタイルの発話行為は非常に興味深かった。

ボナンゴとは、太鼓や指笛などを使いながら、「心の声」を大声で発する演説のようなもの。奇妙なことに、ボナンゴが発話される際、周囲にはほとんど人の姿が見あたらないという。たとえ通りがかった人がいてもそのまま通り過ぎていく。なぜなら、“自分の孫が学校に行きたがらない”“暑くてたまらん”“フクロウが鳴いている”など、わざわざ言う必要もなさそうな些末なものがほとんどだからだ。木村氏の滞在時の記録では、昼間は95%の確率で誰かの大声がこだましていたという。

木村氏は、このような発話行為を、発話の受け手があいまいな状況にもかかわらず、大声のために結果として多くの人に聞こえているという意味で「投擲(とうてき)的発話」と名付けた。このエピソードは、木村氏の著者『共在感覚』(京大出版)に詳しい。

村の長老によるボナンゴの様子【動画撮影:木村大治】

興味深いことに、ボナンゴでは朝の挨拶がほとんど交わされない。なぜかといえば、「常に耳に意味もなく入ってくるボナンゴが、『共に在る』感覚を強化する道具として機能しているのではないか」と木村氏は考える。村人にとっては乱れ飛ぶ大声は無視され、日常の当たり前になっている状態だろうか。

このボナンゴを介した共在感覚は、「対話」を重視するコミュニケーションのあり方に新たな視座を与えてくれる。木村氏は自身の著書『共在感覚』の読者の感想で「ボナンゴはTwitterに似ている」という発見に頷いたと語る。「もはや対話を理想とする、いわゆる対話ドグマにとらわれる必要はないかもしれない。我々は再び対話的ではない、かつてあったコミュニケーションの形を再びITを通じて得たという見方もできる」と木村氏は読む。コミュニケーション方法が多様化する現代、ドミニク氏は「中立的な共在感覚という概念がコミュニケーションの新しい評価軸になるのではないか」と、期待を寄せる。

最後に木村氏は文化人類学の立場から、Well-being の “Well”を取り去り、 「さまざまな“Being”を尊重するまなざしが大切なことではないか」と投げかけた。これはアフリカを始めとするさまざまなフィールドでの体験を通じて得た木村氏の揺るぎない感覚、立場であることを力強い言葉から感じ取った。

体の「どもり」と付き合うこと
伊藤亜紗(東京工業大学/リベラルアーツセンター准教授)

障害者と健常者の体の使い方や、感じ方の差異に注目した研究を行う伊藤亜紗氏は、「体のどもり」を切り口に発表した。

「体がどもる」とは、体が自分のコントロールから外れる状態をいう。どんな人でも「どもり」はあるのだ。伊藤氏は、体のどもりを大きく二つに分けて考えている。一つは、「暴走系のどもり」。例として伊藤氏は吃音を挙げたが、吃音も口の周囲の筋肉が言うことを聞いてくれないという意味で、「体のどもり」として扱われる。「田んぼ」と言いたいのに、「タタタタタ….」と繰り返してしまい、当事者からすれば「タ」から「ン」まであてもなく滑るように向かっていくような感覚があるという。

一方、「固まる系のどもり」もある。このどもりでは、体をコントロールしようという意識が強まるほど、かえって体に拒否されるような、かなり苦痛を伴った感覚があるという。症例として、ある男性はコップを持とうとしたり、サンドイッチを掴むような微妙な力のコントロールを必要とする動作で手が震えたりしてしまうという。ところがその男性は習慣の中で症状を和らげるある方法を発見する。動作の目的以外に注意を向けながら意識を分散させると、適切に動作ができたのだ。

このほかにも、歌ったり、リズムをとったり、何かを演じたりしている最中は、普段のどもりの症状が嘘と思えるほど、消える人がほとんどだという。「リズムや、演技というある種のフレームに意識をゆだねることが効果的なのではないか」と伊藤氏は考察する。

そう考えてみると動物はどもらない。もしかすると、動物は自然の変化にほとんど身をまかせていることがその理由かもしれない。意識に依存するにはあまりにも大きな危険を伴う、一瞬の世界を生きているのだ。

伊藤氏は「そもそもバランスがいいことのほうが不自然で、人は常にゆれている。もしどもりがあるなら、何か体がやっているなあ、というくらいの感覚で、自分の体に生じることを擬人化するように接するといいかもしれない」と語る。

それに対し、弁護士の水野裕氏は、吃音のように、誰もが持ちうる個人の症状を、個性と捉えるか、障害と捉えるかといった、社会的・文化的な視点による考察の必要性を問うた。当事者と周囲が抱く体の特徴の捉え方のギャップを埋める取り組みが、法律、医療、福祉、家族といった様々な現場で求められている。

鑑賞者の想像力を引き出す、ミュージアムエデュケーターの仕事

会田大也(東京芸術大学大学院/アーティスト)

最後の登壇者は、ミュージアムエデュケーターの会田大也氏。かつてYCAM(山口情報芸術センター)にて、市民参加型の企画を運営し、現在はワークショップデザインを中心に教鞭をとる傍ら、アーティストとして作品を発表する。そんな会田氏のコンセプトは、「鑑賞者の想像力と創造性」だ。

会田氏が手がける、メディア技術を駆使した子どものあそび場「コロガル公園」シリーズはYCAMで2012年より発足し、2018年は、シンガポールでも4〜8月で展開。夏休みには山口情報芸術センターでも復活する。 (マレーシアの件は、大統領選の影響もあって協賛金が集まらず中止になってしまいました。)このユニークな公園の特徴は3つある。

1. 床面がスロープによって構成される特徴的な形状で、メディア要素が埋め込まれている。
2. 遊び方は来場者自身が自分で考えて生み出す。
3. 社会性や公共性が自然と育まれる。

各種条件によって、来場者には自由と責任の関係が自然と把握され、メディアであそびならコミュニケーションを拡張して社会性を身に付けていくことになる。そして運営側は、子どもたちから生まれたアイデアをできるだけ実装することをまずは見守り、その上でサポートする。1のメディア技術は多岐にわたり、その遊び方も自在だ。公園施設の様々なところにマイクとスピーカーを設置したところ、天気予報、迷子放送などといった放送が子どもたちから発信され、そこで遊ぶ子どもたち全員に届けられるメディアとなった。

「(子どもたちに)苦労を取り戻したい」と会田氏は語る。新しいことにチャレンジすることで降りかかる苦労を経て得られる喜びがある。もしかすると、今の社会は子どもだけでなくどの世代にも、喜びや満足感へのかけ橋となる苦労が足りていないのかもしれない、と。

印象深いエピソードが共有された。YCAMで夏休みの間に設置された「コロガルパビリオン」の存続をめぐって、子どもたちが自ら署名活動を行ったのだ。結果、市内の学校ともネットワークを築いて呼びかけ、結果として1000人の署名を集め、市は運営予算をつける決定を下したのだという。YCAMの運営チームの哲学が子どもを心的に支え、不可能を可能にさせた素晴らしい実例だ。

神居氏は「コロガルパビリオンのようなメディアが、子ども同士のみならず、障害者や高齢者など垣根を越えて新たなコミュニケーションを生むのではないか」と答えた。会田氏は、過去に子どもが山口と札幌をつないでオンラインで会話をしようとしたときに、電波障害が起こっても、身振り手振りで難なくコミュニケーションが行われた例を挙げ、バリアをあえてコミュニケーションの道具として前向きにとらえることの大切さを強調した。

自己と他者が共在していく世界のウェルビーイング

最後に、清水淳子(東京芸術大学大学院)氏が本研究会をビジュアルワークでまとめた圧巻のグラフィックレコーディングを使ってまとめの討論を行った。参加者全員で、ポスターに印象に残ったキーワードを思い思いに張り付けていく。

飯田氏の瞑想の話題の中で「案外自分の幸せを考えるのが一番難しい」と述べたのは、人の共感性について研究する村田藍子(早稲田大学)氏。自分にゆとりや幸福感があってはじめて他者の幸せに意識が向けられることに言及した。この発言が、瞑想は自分のためであり、また、他者のためでもあるという点を浮かび上がらせた。

また会田氏は、伊藤氏の「どもる体」の話から「人は予測のループを利用してうまく生きているのではないか?」と考察した。予測は言語や視覚的なイメージを使ったいわゆる未来への想像だけなく、からだ全体で常に無意識に行われているという認識を会田氏の中で強めたという。木村氏は「やっぱりエスノセントリックなウェルビーイングはあかんで」とポストイットで貼りつけた。ありのままの他者、そして自分を受け入れ、うまく折り合いをつけながら共存することにそれぞれのウェルビーイングの形を見出すヒントがあると改めて強調した。

今後も、本研究会は様々な観点から議論が重ねられ、「日本的Well-being を促進する情報技術のためのガイドライン」の内容を深掘りして。「日本人にとっての良好な状態とは何か」という本質的な問題がこれまで日本の中で特に議論されてこなかったということを知り、驚いた。
 
ドミニク氏は、その背景を以下のように分析する。つまり、日本やアジアは欧米ではマイノリティのために研究のインセンティブがなかったが、近年のマインドフルネスブームによって西洋社会がアジア的価値を見直しており、その逆輸入された概念に対して日本やアジアでも追従が起こっているという。さらに、現代の日本社会は、西洋近代主義と、それ以前の非近代文化が融合したハイブリッド文化であるため、非近代あるいはハイブリッドの部分に焦点を当てるかで「日本的」という意味も変わってくる。本プロジェクトでは、ハイブリッドな現代社会に焦点を当てることを前提としつつ、非近代の部分にも注目しながら今後展開される。これから本研究会でどのような議論がされ、どのような集大成が迎えられるのか。日本社会で生きる一人の生活者として、見守っていきたい。 

イベント概要

「日本的Well-being を促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」
 年次研究会Vol.2 

参加メンバー

安藤英由樹(大阪大学大学院/情報科学研究科)
渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所/主任研究員)
ドミニク・チェン(早稲田大学文化構想学部准教授/NPOコモンスフィア理事)
青山一真(明治大学/総合数理学部助教)
神居文彰(平等院/住職)
坂倉杏介(東京都市大学/都市生活学部准教授)
加藤亮子(芝の家/事務局長)
水野裕(シティライツ法律事務所/代表弁護士)
村田藍子(早稲田大学/研究員)
小澤いぶき(東京大学先端科学技術研究センター/児童精神科医)

グラフィックレコーディング:清水淳子(東京芸術大学大学院)

スピーカー:石川善樹(予防医学研究者)
飯田豊(立命館大学/現代社会学部准教授)
日和悟(同志社大学/生命医科学部医情報学科助教)
木村大治(京都大学大学院/アジア・アフリカ地域研究研究科教授)
伊藤亜紗(東京工業大学/リベラルアーツセンター准教授)
会田大也(東京芸術大学大学院/アーティスト)

 

CREDIT

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TEXT BY NORIHIKO KAMAYA
1988年島根県松江市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科認知科学分野修了。森岡書店銀座店の書店員を経て独立。それぞれの生物が独自に体験する世界(環世界)をテーマに研究、キュレーション、執筆活動を行う。 http://kamanori.tumblr.com/

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