• TOP
  • WORLD-TOPICS
  • 時間逆行映画『TENET』の謎とは何だったのか? 映画に魅了された物理学者、橋本幸士が反芻する

WT

2020.10.09

時間逆行映画『TENET』の謎とは何だったのか? 映画に魅了された物理学者、橋本幸士が反芻する

TEXT BY KOJI HASHIMOTO

現在、大ヒットを続けているクリストファー・ノーランの新作映画『TENET』。ノーランといえば、短期記憶を失う男が主人公のサスペンス『メメント』において、その卓越した構成力と演出で一躍映画界のスターとなった人物だ。その後の大型作品『インセプション』でも、ノーランは「映画と時間」の関係に挑み続けてきたことがわかる。そしていま、“時間逆行映画”を標榜する『TENET』が全国公開中だ。多くの人が「一度観ただけではわからない」と口々に語るこの映画、一体
スクリーン上では何が起きているのか? 本作に魅了された物理学者・橋本幸士が独自の視点で解説する。

タイムリバーサルは、毎日数式上でやっている

世界興行収入が300億円を突破した(日本公開2020年9月の一ヶ月後)ことからも分かる、全世界の映画ファンを魅了している映画『TENET テネット(以下、TENET)』。一人の物理学者である僕も観て来た。一言でいえば、タイムリバーサル(時間逆行)を肉体で経験する映画、ヤバイ。

以下、物理学者の戯言に付き合っていただける方は、ぜひ。

とにかく僕はタイムリバーサルというのは、数式の上で毎日やっている。ノートや黒板に書いた数式に、タイムリバーサル変換をかますのだ。「変換をかます」というのは、物理学の関西方面の用語で、「変換を施す」ことを意味する。まあ言葉はどうでも良い。物理学では、世界のあらゆる現象をシミュレーションするために、まず現象を数式に落とし込み、そしてその数式をいじることで現象に起こる変化や将来の挙動を予測する。ひとつの物理系(それは宇宙でも良いし、ボールの運動でも良い)を表す数式は「ハミルトニアン」と呼ばれる。ハミルトニアンが与えられれば、物理系が与えられたことになる。そう、僕は毎日、ハミルトニアンにタイムリバーサル変換を施しているのだ。これは、物理系を時間逆行して眺めることに他ならない。

なぜそんなことを毎日やっているかというと、決して『TENET』を観に行く前の練習ではない。
時間反転の変換を行なって、変わらない物理系と、変わる物理系が世の中に存在するのだ。うまい物理系では時間反転でハミルトニアンが変わらない。変わらないということは、時間を逆行する現象は時間が通常のように進む時と変わらないように見えるということである。時間反転で不変な物理系とそうでない物理系の違いは、物理学では重要で、新物質の開発やその挙動の解析などに広く用いられている。

映画『TENET』予告編 

もう少し専門的に言うなら、タイムリバーサル変換をかますというのは、「CP変換をかます」というのと同じだ。CP変換は、C変換(荷電共役変換)とP変換(空間パリティ変換)の合成変換だ。そして全ての矛盾ない物理理論はCPT変換(つまりCとPとTを同時に行う変換)で不変であると信じられているので、CP変換を施すことはT変換を施すことに他ならない。このT変換というのが、タイムリバーサルという変換であり、時間の進む向きを逆にする変換である。(*ネタバレ脚注1)

数式でCP変換をかますことを毎日やっている僕でも、自分の肉体だけがCP変換を施されたらどうなるかを真剣に考えたことはなかった。それが『TENET』では眼前に展開される。え、CP変換って、そんな機械で?!(*ネタバレ脚注2) その機械の動作原理はともかく、ほんまに、一回、その機械の中に入ってみたい。

CP変換を物理状態に施すと、粒子が反粒子に変更される。この宇宙で発見されている素粒子にはすべて反粒子と呼ばれるパートナーが存在しており(粒子と反粒子が同じである種類もある)、理論物理学者ディラックは、物理学の数式から、電子の反粒子である陽電子の存在を予言した(その後陽電子は実際に発見された)。だから、もしCP変換を人間に施せば、人間を構成している全ての素粒子が反粒子になる

人間の意識が本当にCP変換で時間逆行の世界に入れるのか、という根本的な映画のテーマの部分は、物理学的には非常に疑問がある。意識というのは脳の電気信号のやりとりだから、すべて物理過程であることは疑いの余地はない。だから、もしも自分という局所的な空間だけにCP変換が施されたなら、自分の構成する粒子は全て反粒子にはなるが、特に時間が反転逆行した外界の様子を見ることができるわけではない。さらに言えば、自分の体が全て反粒子となるので、危険極まりないことに気づく。もし自分の体が全て反粒子になったら、外気に触れるだけで一瞬のうちに大爆発するだろう。(*ネタバレ脚注3)

エントロピーの増減が鍵となる?

僕は我に帰った。残念だが、映画では時間逆行の際に反粒子になっているわけではない、と仮定すべきなのだろう。反粒子にしないのなら、物理学の基本原理である「粒子数保存」が壊れてしまうが、仕方がない。実際にはこの宇宙の素粒子物理学では、CP対称性はわずかに破れていることが知られているが(小林益川理論)、それと関係のある物理の議論ができるのだろうか。とにかく、映画『TENET』の反粒子解釈には目をつぶるしかないように思う。

しかし、それでも『TENET』では面白い物理論考がたくさんできる。そのひとつは映画中で使用された「エントロピー」という言葉だ。一瞬口走られているが、そのあたり、映画を観ながら論考するのは面白いだろう。

エントロピーとは、状態の乱雑さのことで、物理学的には「可能な状態の数」といった量に関係して定義されうる量のことである。例えば、部屋の散らかり具合を想像してみると、放っておくとどんどん物が散らかっていく。これを物理学者は「エントロピーは増大するから仕方ないよね」と言って笑う。そう、物理学の基本的な法則のひとつに「エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)」というものがあるのだ。これは、時間が進むとエントロピーが増大するという法則である。映画では「エントロピーが減ると時間が逆行する」といったような意味でこの言葉が登場しているようであるが、その意味は物理学的にはまったく定かではない

例えば、水たまりを靴で踏んだときに、水が周りに散らばる。これは、エントロピーの増大として解釈できる。映画の予告編では、水たまりの水が靴に吸い付く様子が公開され、息を飲んだ人も多いだろう。この現象はエントロピーの減少を表している、と言えなくもない。実のところ、ニュートンの力学の物理法則はタイムリバーサルで不変であるので、時間を逆行したとしても特に問題ない(数式上では)。だから、非常に繊細に用意された初期状態からスタートして通常の時間発展を施すと、時間を逆行しているような現象(エントロピーが減っているように見える現象)を作ることはできる。これは、例えば、滑り台の下からボールをうまいぐいあいに上を目掛けて転がすと、あたかも上から転がした状況の時間を逆行したような風景を作れる、ということに他ならない。

ということは、映画では、そういった非常に稀だけれども起こりえる世界を見ているという解釈もできる。うん、一度はそういう世界に入って、自分も主人公のように動いてみたいものだ。ただし、よく考えてみると、そういった世界で自分が動いて水たまりを靴で踏んだとしても、普通に水が跳ねるだけで、水が足に吸い付いてくるなんていうことは起こらない。時間が逆行しているのではなく、初期状態のアレンジでそう見せかけているだけだから。つまり、初めは非常に繊細に用意された初期状態では、しばらくはまさに時間が逆行しているように見えるが、直後に自分がそれに揺動を加えることで、繊細に用意された初期状態は急速に壊れ、通常の時間の流れの物理学に基づく世界のように見え始めるだろう。これでは映画の映像と矛盾してしまう。 
































 
 

 『TENET』舞台裏メイキング映像。CGを嫌うノーラン監督ならではの撮影現場。 

この映画は自由意志を否定している?

うーん、だめか。何かうまい物理学的説明はないか? 物理学者というのは、異常な現象を見せられたら、それを理論的に解明するのが仕事である。面白い映像を見せられて、それをうまく説明する方法が見つからないのは、物理学者にとって残念なことだ。

そう、こんな考察を始めるきっかけを与えてくれるという意味でも、映画『TENET』は面白い。物理学的には突っ込みどころ満載だ。そういうところは、ハードSFを読もうとしても僕には読めないことに似ている。グレッグ・イーガンなどのハードSF作家の作品は、小説に登場する用語が専門的すぎて、しかも本当の物理学に近い言葉遣いをされるので、それらの物理学的な論理が気になりすぎて、僕にはストーリーが全く頭に入ってこなかった。しかし、TENETの映像体験は大きく違った。吸い込まれるようにその世界に自分をそっくり入れられてしまうので、物理学を駆使させていただく暇が与えられないのだ。映画を見終わった今なら、落ち着いてシーンごとに反芻して物理学的考察が出来るが、映画を見ている間は全く違う。時間逆行体験を物理学者にもさせてくれる映画だ、いうことは太鼓判を押しておこう。

時間逆行をストーリーに持つ映画やアニメはたくさんある。しかし『TENET』はそれらから見ても飛び抜けている。『TENET』のストーリーで秀逸なのは、映画特有の「伏線」が、時間逆行のシーンの随所にすでに埋め込まれていることだ。普通、映画ではフラッシュバックという手法を使うが、『TENET』それが「生で」登場するところが画期的である。これは時間を本当に生で逆行する映画でしかあり得ない。

単に過去に戻ったり未来に行ったりするストーリーは、『ドラえもん』でも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でも存在している。しかしそれらの古い映画では、時間を逆行するシーンは「世界の外」にあるため、伏線の種を見せることはできない。思えば、映画『インターステラー』の最後に近いいくつかのシーンでは、そのような伏線回収(伏線というより本線だ)が映像表現で行われているシーンがあり、(それも物理学としてはかなり無理なところだが)映画表現としては非常に面白かった。『TENET』ではそういった映画特有の手法が、時間逆行と融合して見事に昇華している。

ところで、「過去に行く」系の映画にはパラドックスがつきものだが、映画『TENET』ではその中でキャストに「そんなことは考えるな」とわざわざ言わせているのも興味深い。これは、考えるよりも感じろよ、という監督ノーランのメッッセージかもしれない。しかし、物理学者とは、「そんなことは考えるな」と言われたらむしろ考えてしまう、やっかいな生き物である。

実は、映画『TENET』は完全に自由意志を否定する立場でストーリーが構成されていると思われる。これまで、過去に戻るストーリーの映画のストーリーは、主人公の自由意志の存在との矛盾をなくすために、パラレルワールドを用意していた。まあ、それも映画なんだから、別に良い。しかし映画『TENET』は、パラレルワールドを廃し、ストーリーが無矛盾になっているように見える。そこが大変気に入った。決定論的世界観になんとなく大学生活で毒された僕には、自由意志を否定したいという感覚が自分の奥底にある。『TENET』では自由意志の非存在と格闘する主人公がそのまま描かれていることが、本当に素晴らしかった。もちろん、映画の中にも、その答えはない。だから僕にとって、この映画には「痛快」という言葉が似合う。

自由意志を否定したがっている人に、この映画を推薦したい。

ネタバレ脚注1:
ちなみに映画中では、時間逆行の状態にあることをinvertedという言葉で表現しており、頻繁に使われているが、物理学では時間の向きを逆にすることはreversalという言葉を用いる。Invertedという言葉は、物理学では上下を逆にしたりする状況で使われるので、むしろビジュアル感がある。映画は時間逆行をビジュアルに描いているから、この言葉invertedがふさわしいかもしれない。もしくは、未来の物理学においてはreversalとinvertedが異なる概念であることが発見?されて、それで用語がそもそも概念として違うということなのかもしれない。と想像すると物理学者にとってはかなり面白い。

ネタバレ脚注2:
映画中で登場する時間逆行をかます機械は、丸い部屋で、入り口が自動ドアのようになっている。そして、左隣にそっくりなものがあり、そちらと連動しているのだ。右の部屋に入って扉が閉まると、左の部屋から時間逆行した世界に自分が出てくる、というふうに作られているようだ。そして、「部屋に入るときには、左から自分が出ていることを確認しろ」と言われる。確かに、時間が逆行した世界に行くのだから、自分がそちらに見えていないとおかしい。だから主人公たちは確認しつつ機械に入室するのだ。しかし、映画中で左に見えている自分の動き方は、果たして時間逆行と矛盾ないのだろうか? 映画でご確認いただきたい。

ネタバレ脚注3:
映画中では、主人公たちは時間逆行の世界にいる間は酸素マスクをつけている。これは、その世界の空気を吸うと体に悪いらしいからなのだが、「反粒子と粒子の対消滅」という言葉が映画中で使用されていることから、空気と自分の粒子が対消滅することが想定されているのだろう。しかし、真面目に物理学的に考えると、すでに自分の靴(反粒子でできている)は床(粒子でできている)とすぐに接触しており、そこで対消滅が発生するはずである。対消滅は、胸が焼ける感触といった程度のものではなく、地球全体が吹っ飛ぶくらいのγ線を放出するだろう。未来のテクノロジーでは、反粒子が粒子と接触しないで済むような、そういった奇妙な変換装置が開発されているのだろうか。

© 2020 Warner Bros Entertainment Inc.
All Rights Reserved

『TENET テネット』
9月18日(金)全国ロードショー

監督脚本製作:クリストファー・ノーラン 製作:エマ・トーマス
製作総指揮:トーマス・ヘイスリップ

出演:ジョン・デイビッド・ワシントン、
ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ディンプル・カパディア、アーロン・テイラー=ジョンソン、クレマンス・ポエジー、マイケル・ケイン、ケネス・ブラナー

配給:ワーナー・ブラザース映画
http://tenet-movie.jp

 

ARTICLE'S TAGS

CREDIT

7 2
TEXT BY KOJI HASHIMOTO
素粒子物理学者。大阪大学・大学院理学研究科教授。理論物理の研究を行う傍ら、著書「超ひも理論をパパに習ってみた」や「超弦理論知覚化プロジェクト」、TED×OsakaUでの講演など、さまざまなアウトリーチ活動も手がけている。1973年生まれ。大阪育ち。2000年理学博士(京都大学)の後、京都大学、カリフォルニア大学サンタバーバラ校、東京大学、理化学研究所(橋本数理物理学研究室を主宰)を経て、2012年より現職。 http://kabuto.phys.sci.osaka-u.ac.jp/~koji/

page top

ABOUT

「Bound Baw」は大阪芸術大学アートサイエンス学科がサポートするWebマガジンです。
世界中のアートサイエンスの情報をアーカイブしながら、アーティストや研究者の語るビジョンを伝え、未来の想像力を拡張していくことをテーマに2016年7月から運営を開始しました。ここから、未来を拡張していくための様々な問いや可能性を発掘していきます。
Bound Baw 編集部

VISION

「アートサイエンス」という学びの場。
それは、環境・社会ともに変動する時代において「未来」をかたちづくる、新たな思考の箱船です。アートとサイエンスで思考すること、テクノロジーのもたらす希望と課題、まだ名前のない新たなクリエーションの可能性をひも解くこと、次世代のクリエイターに向けて冒険的でクリエイティブな学びの旅へと誘います。

TOPICS

世界各国のアートサイエンスにまわる情報をを伝える「WORLD TOPICS」は、国内外の展覧会やフェスティバルのレポート、研究機関や都市プロジェクトなどを紹介します。「INTERVIEW」では、アーティストや科学者をはじめ、さまざまなジャンルのクリエイターへのインタビューや異分野の交わる対談を掲載。「LAB」では、大阪芸術大学アートサイエンス学科の取り組みを紹介しています。

STAFF

Editor in Chief
塚田有那
Editorial Manager
八木あゆみ
制作サポート
communication design center
Flowplateaux
STEKWIRED
armsnox
MountPosition Inc.

Copyright 2016 Osaka University of Arts.All Rights Reserved.

close

bound baw