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2016.12.22
サウンド・アートは「目で聞く」から「耳で視る」へ。evalaが開拓したサウンドVRの新たな地平
TEXT BY MINORU HATANAKA
古今東西、「音」にまつわるさまざまなアプローチが探求されてきたサウンド・アートの世界。新たな「音楽」のかたちを志向するその最先端は、いまどこへ向かっているのだろうか? evalaが2016年に発表したサウンドVR作品《hearing things #Metronome》を軸に、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員の畠中実がサウンド・アートの現在を切り取る。
「音楽」と「サウンド・アート」の境界線
サウンド・アートというジャンルは、その言葉のとおり、美術という視覚中心の表現形式の範疇で展開される聴覚的作品ということができる。
それは、音による作品を、美術の領域、または展示という形式で発表するものである。そこには美術家と音楽家が含まれ、美術と音楽という異なる表現形式を出自とするものの混在する表現であることが特徴である。作品の傾向としては、展示という発表形態を前提にしているということから、音となんらかの造形的要素、視覚的要素との関係性を明示する作品が多い。現在まで、サウンド・アートの多くの作品はそのように展開されている。
たとえば音楽家の作品には、音響を発生させる仕組み自体が展示されるものや、音楽、音響の付随物として造形物が展示されるもの、スピーカーが造形的に構成されるものなどがある。美術家の作品では、たとえば音響彫刻などがあり、楽器としても機能する作品、動きに伴って音を発するキネティックな作品などが特徴である。
音響を発生するメカニズムがインスタレーションとして展示されるアルヴィン・ルシエの作品、ラモンテ・ヤングの作品《ドリーム・ハウス》では、室内の設えとともに展示されるモビールなど、または、鈴木昭男のアナラポスのような音具や、マックス・イーストレーの自身で動いたり、自然の力で音を発したりする音響彫刻などがある。
アルヴィン・ルシエ《エンプティ・ヴェッセルズ》(ICCヴァージョン)1997-2003
撮影:大高隆 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]
サウンド・アートと音楽との差異としては、演奏者が不在であることや、ある音響の状態が展示という形で提示される、ということがあげられる。たとえば、スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーらの反復を主にしたミニマル・ミュージック、ブライアン・イーノをはじめとするアンビエント・ミュージックなどには、いつ終わるとも知れない反復と持続、始まりや終わりのない無時間性が備わっており、音楽が時間的なものから空間的に展開される契機がある。
サウンド・アートにおいては、展示という手法のための条件として、視覚的要素を伴うことがある、ということではかならずしもない。たとえば、複数のスピーカーを用いたマルチ・チャンネル音響作品などのような、音のみによって構成された、音のみを体験する作品もある。
それは、音響の空間定位などの操作により、音あるいは音楽を空間的に設置するサウンド・インスタレーションとして展開される。そこでは、視覚によらない、聴覚のみによって体験することが可能な空間が提示されることになる。それは、単に音を聴く、「聴取」ということを越えて、それらをより「体験」として感得させ、さらには視覚によらないイマジネーションを喚起させることが目指されている。
複数の「場」へと誘う、イマジナリーなサウンドスケープ
音楽家、サウンド・アーティストのevalaは、独自のマルチ・チャンネル、マルチ・スピーカーのシステムによって実現される、空間的なコンポジションによる音楽作品や、立体音響システムによるサウンド・インスタレーションなどの手法による先鋭的な作品の数々を制作している。
それは、オーディオのステレオフォニック(2ch)や映画館や劇場でのサラウンド・システム(5.1ch)などの既存のオーディオ・システムによってもたらされる、リアリティや臨場感といった、従来的な音の定位による現実空間のシミュレーションとは異なる音響空間の提示を行なうものであり、新たなコンポジションとも言うべき方法を探求するものである。
evalaがサウンド・アーティストの鈴木昭男と共作した作品《大きな耳をもったキツネ》(2013〜14年に東京のNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]で公開された)は、無響室を真っ暗にして視覚情報をほぼ遮断した中で体験する、8.1chのサウンドシステムによる音響空間コンポジション作品である。
鈴木は、自身の制作した音具アナラポスをはじめとする数々の自作楽器による演奏をはじめ、身の回りの音を聴くための空間として制作、提示された自身の作品《ひなたぼっこの空間》と《点音(おとだて)》で聴こえる音を選定。これらの作品は、鈴木が京都府丹後市内のさまざまなエリアで創出した屋外のリスニング・スポットであり、evalaはそれらを全方向性マイクロフォンによってフィールド録音した音を素材としている。
そして、それぞれ録音された空間の残響と反射を無響室内で擬似的に作り出し、それと音響的変化を伴う音の運動を再構成することで、空間を拡張させたり、複数の異なる音響空間をオーヴァーラップさせたりすることで、観客を「音響」としてしか体験することができない、イマジナリーなサウンドスケープに没入させる作品を構築した。
テクノロジーが可能にした、新たな「作曲」
evalaは、音楽において、いわゆる記譜することのできない要素として「音色」の存在をあげる。さらには、空間において音色をどのように知覚させるかということが作曲の要素に大きく関わっていると言う。
また、立体音響システムによる音響体験を、音による現実感の創出という、音によるヴァーチャル・リアリティ的なあり方を超えて、さらに、日常的に聴覚で知覚できる音響空間を超えた、「超現実感」とも言うべき音響体験の創造へとアップデイトすることを目指すものととらえる。
たとえば、それは無響室のような、音の反響の極めて少ない音響特性を持つ空間を、さまざまな音響空間に変容させ、異なる空間を現出させることにとどまらない。それは、「音による造形」とも言うべきもので、しかも、動的につねに変化していくような建築的空間を構築する。さらには、頭の中で音が鳴っていたり、目の前に音が漂っていたり、音が体を突き抜けたりといった、通常、空間で耳によって音が聴こえる状態とは異なる音響体験を可能にする。
それは、テクノロジーが可能にした新たな音響空間であり、空間における音の運動を伴った構築物の制作とでも言い得るものであり、新たな作曲法による、新たな音楽のあり方を示唆するものでもあるだろう。
「超現実」を生み出す、唯一無二の音響体験
そうした試行を、さらに押し進めたものとして制作されたのが、evalaの最新作《hearing things #Metronome》である。2016年6月に発表された本作は、京都岡崎音楽祭OKAZAKI LOOPS(9月2日〜4日)に出展後、東京・六本木のWIRED Lab.での体験インスタレーション(12月16日〜19日)にて披露され、大きな話題を集めた。
内側を黒い遮音素材で囲われた、暗いコンテナ状の部屋の中に、3台のメトロノームが、ほのかな灯りに照らされながら、拍を刻んでいる。メトロノームの音は、全方向性マイクロフォンでとらえられ、立体音響プログラムによってリアルタイムに音響処理を施される。
やがて室内が暗転し、視覚が遮断されると、目の前にあったメトロノームの姿は消失する。しかし、その音は増殖して空間を駆け巡り、時間軸は伸縮し、空間を拡張し、縮減する。
evalaは、自身の一連の立体音響システムによる作品を「耳で視る」ものだという。しかし、それはいわゆる情景的なものが音によって喚起されるということとはちがう。また、なにか具体的なものが「目で見る」ように、その存在が感覚できるということともちがう。むしろ、それは現実にレファレンスに持たない、現実空間での音響現象からかけ離れた聴覚体験(もちろん、これも現実空間での音響現象であるわけだが)であり、音響によるイマジナリーな空間のコンポジション、あるいは音響によって作られた構築物とも言えるものである。暗転した室内において感じる、部屋を取り囲む壁が消滅し、空間が無限に拡張した中で、宙吊りになったような感覚。その中で、現実の音響空間がリアルタイムに、再構築されることで、現実空間が変容し、その変化のただ中に観客は投げ出される。それは聴くことでしか感覚できない、しかし、耳によって知覚されながら、音としてのみ感得されるのではない、現実の空間から逸脱した、聴覚体験がなされる。
それは、現実の空間がシームレスにさまざまな空間に変容していくということでは、SR(代替現実)のような錯覚効果をもたらす。暗闇の中で、見えないメトロノームが、空間の中を駆け巡り、視覚によらないイマジネーションが発動する。そのとき、「目で見る」こととは異なる、evalaの言う「耳で視る」ということが理解されるだろう。