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2017.07.14
音楽家Monolakeが問う、現代のアートサイエンス
TRANSLATION BY SATOSHI HATTORI,INTERVIEW BY ARINA TSUKADA
ベルリンを拠点に、クラブカルチャーからデジタルアートまでを横断的に活動するミュージシャン、オーディオビジュアル・アーティスト、Robert HenkeことMonolake。アート活動のみならず教育にも注力する彼は、アートサイエンスに深い関心を抱き続けている。本稿では、昨年彼のウェブサイトに掲載されたエッセイ『用語法についての問い: デジタルアートにおける「サイエンス」と「リサーチ」』の翻訳とともに、編集部が行ったインタビューを紹介する。
Robert Henkeの活動は多岐にわたる。自らのアーティスト活動や教育活動、「制作のためのツールを制作する」ことを通じて、世界の電子音楽やデジタルアートの領域へ多大なる影響を与えてきたHenke。ソロ名義Monolakeでの精力的な音楽活動と並行して、90年代後半からはベルリンのDubplate & Masteringでのマスタリング・エンジニアとしての活動、自らの音楽表現のためのハードウェアの開発、音楽制作・パフォーマンスのためのソフトウェアAbleton Liveの開発者の一人として貢献するなど、様々なレイヤーのエンジニアリングにも深く携わってきた。
2000年代からは音源制作やライブ活動に加え、インスタレーション作品の制作・展示も本格的に開始し、近作ではサウンドに駆動される高出力レーザーを用いたオーディオ・ビジュアル表現を展開しており、世界中のミュージアム、フェスティバルでの上演や展示を重ねている。また、Henkeはベルリン芸術大学やスタンフォード大学のCenter for Computer Research in Music and Acoustics(CCRMA)など、数々の大学や研究施設でのコンピュータを用いたクリエイションの研究・レクチャー・指導に従事してきた教育者としての側面もあわせ持っている。
そんな彼の考えるアートサイエンスとは何かを訊ねてみた。
《Fall》2016
《Spline》2017
透過膜を用いたHenkeのサウンドとレーザーの実験シリーズのひとつ。《Spline》では全長120mにわたる透過膜をスプライン曲線状に反射・透過体として空間に吊り下げ、サウンド、光源の設置数やアングルをチューニングし、独自の視聴覚空間を構成している。また本作のサウンドは動的に生成されており、サウンドに駆動されるレーザーのキネティクスやフォグマシーンの作動も含めて、展示期間を通じて作品空間が変容し続ける設計となっている。
「ことばの使い方」についての問い:デジタルアートにおける「サイエンス」と「リサーチ」
Henke: ここ最近、アート、とりわけデジタルアートをサイエンスやリサーチと称することが流行しているようだ。しかし僕が思うに、その関連づけには少し非対称なところがある。
よくアーティストが自らを「リサーチャー」と称したり、自身の仕事を「サイエンス」だと主張したりする一方で、たとえ学会や論文の中で何らかのアート作品に言及していたとしても、分子生物学者たちが「アーティスト」と名乗ることは少ない。アートの実践を「サイエンス」と呼ぶことや、科学的な「リサーチ」であるかのようにほのめかすことは、アーティストのうぬぼれに他ならない。
アート作品の制作手法は、自然科学における古典的な「リサーチ」の手法とはあまり関係がない。よって、もし「アーティスティック・リサーチ」という言葉に意味があるというなら、「空港行きタクシーのリサーチ」なる用語も作品のプレスリリースに含むようにしてほしい。これで少なくとも私の議論の視座は示せるだろう。
なぜこんなことを気にしなくてはいけないのだろうか?
それは、この世界がたった2000年前に誕生したのだと子供たちに教える人々や、地球温暖化はインターネット上のデマだと信じる人々、自分の宗教的信条に都合よく現実を歪曲しようとする狂信者たちから、サイエンスを守らなくてはいけない時代に私たちが生きているからだ。
アートは非常に強靭な声と力をもっており、私たちはそれを意味のあるかたちで行使しなくてはいけない。単に自分たちの作品を魅力的に見せたいがために、サイエンスの概念やアイデアを我田引水するのは無知なる行いである。
アートとサイエンスはまったくの別物だ
Henke: エンジニアリングにおいては、「仕様」(specification)に即したプロダクトを構築することが目的となる。そもそものプロセスのはじまりには、問題を解決すること、同じタスクをよりよくこなすために既存システムを改善すること、過去には不可能だった何かを達成することへの欲望が存在している。
この「仕様」の中には、プロジェクトの目的を実現するための具体的なレシピは含まれていない。つまり、実際にその目的を達成するための道筋は、当のエンジニアの経験と直観に任されていることもある。
このエンジニアたちの非常に創造的なプロセスにおいては常にいくつもの選択肢がある。そのため、私たちがエンジニアリングについて語るとき、エレガンス、ビューティ、ミニマリズム、形式の一貫性といった、アート作品を評価する時と似た言葉を援用するのである。
しかし、そこには根本的な違いがひとつある。
それはエンジニアリングにおいて、そのプロセスの結果はあくまで客観的な基準にしたがって評価されるということだ。これをアートにおける創造のプロセスと関連付けて考えてみよう。また、サイエンス、とりわけ自然科学と比べるとどうなるだろうか。
一見すると、アートと自然科学の歩むプロセスは近いように見える。たしかに科学的リサーチにも冒険があり、偶然がもたらす偉大なる発見がある。これは、私たちアーティストがビデオ・プロジェクターの配線をミスしたときにクールな出力が偶然出現し、ではそれを10台に増やしてみたらと、試行錯誤の実験を繰り返すことと同じように捉える人もいるだろう。
果たして、本当に同じなのか?
僕の答えは「ノー」だ。
科学的リサーチにおけるあらゆるポイントは、すべてセオリー(理論)に帰結する。成功したリサーチというのは、一日が終わったときに、客観的で、誰が見ても証明可能な結果を生み出しているものだ。
物体の振る舞いを説明する数理モデルが正しいかどうか、そのモデルを未来においても適用できるのかどうかや、あるいは逆に、これまで私たちが世界を認識していたモデルが正しくなかったということが、証明されるということ。
科学的リサーチは、あるマテリアルに限界まで圧力をかけたり、新たなメソッドを構築したり、高エネルギーを生み出したりすることについての精密工学、より微細な距離やより小さなマシーン、より高速なコンピュータを制御するためのより良いアルゴリズムにに依拠している。そしてこれら全てを成立させる想像力と直観、細部に対する偉大なる注意力が必要になる。これらの全てが僕たちアーティストにも強く関係しうる。おそらく、強すぎるほどに。
しかし、科学的リサーチにおいて何らかの問いや要求(request)から始まったものの結果が「証明可能なもの」になるとは、どういうことなのだろう。それは常に再現可能で、一定の論理的ルールに従ったプロセスを伴う。そこに魔法は存在しないし、嗜好や意見が介在する余地もない。
嗜好や意見などというものは、目的の達成に対して非本質的な部分での戯れでしかない。密閉されたビームの外側をイエローやピンクで着色することは、ビームの内部の陽子(プロトン)には干渉しない。グラフィカル・ディスプレイ上に表示されるフォントが、その結果に干渉しないことと同じである。
「科学的リサーチ」なんて言葉は簡単に使わない方がいい
Henke: アートにおける創造のプロセスについて考えてみよう。最近の議論でも、コンピュータ・アニメーションが今のような創作を可能にしてきた背景には、科学的リサーチの蓄積が必要だったことなどを例に、「サイエンスの方がアートに干渉している」と誰かが言及していたのを耳にした。
それ自体はもちろん事実だが、本質的な部分を言い当てているとは思えない。と同時に、おそらくそれが「アーティスティック・リサーチャー」の戦略であることを隠蔽してしまっている。その「リサーチ」はアート作品の制作に関するものではなく、それに用いられる「ツール」の研究でしかない。絵画には化学が、音響現象には数学が内在するのは当然のことだ。
しかし、真にエンジニアリングと呼びうる水準で作品制作のツールを自ら作成するようなアーティストの場合においてすら、これらのリサーチやエンジニアリングが創造的な意志判断を決定付けるわけではないのだ。
なぜならアートには、客観性や、作品を説明しつくすことができる形式的理論も存在していないからだ。あるタスクを実施するための標準的な手続きが存在したとしても、それ自体は芸術的イノベーションを生成するものではなく、それを支える肉(meat)を生み出すプロセスでしかないのだ。
アートにおいて、私たちは作品の制作が「終わった」と言い切ることはできない。当初に掲げた目的がどの程度達成されたかを定量的に示すこともできない。最終的な結果についての明確で完全なるビジョンをもって始まる芸術的プロセスは存在しない。
もしそのようなものが存在するとすれば、アーティスト自身が自分の過去の作品をコピーしているということであって、それは彼自身ではなくアシスタントや他の誰かにもできることのはずだ。
ひとたび芸術的イノベーションが成し遂げられると、それを繰り返すことにはいかなる芸術的スキルも必要とされず、単なる試行錯誤や思いつき、選り好みの結果としてそのバリエーションを派生するだけになってしまう。
そこに(科学的な厳密さにおける)「理論」など見出すことができるだろうか。次なる『絵画・曲・映像・オーディオビジュアル・インスタレーション』作品をより良く作るのに役立つような?
この問いにあなたが何らかの解を見つけられるとしたら、私は喜んでその論文の査読を引き受けたい。もしScientific AmericanやPhysics Reviewに掲載されるに価する成果を出せなかったとしても、そのときはそれを「アート」とラベリングしておいてほしい。決して「サイエンス」ではなく。
アートサイエンスが生み出すもの
あなたはこれまでサイエンスにどんな影響を受けてきたと思いますか?
Henke: 僕が作品制作に使っているツールのどれ一つをとっても、物理や数学、化学の応用なしには存在すらしていないと思います。人が現代的なコンピュータを組み上げられるのは、量子物理学を理解しているからです。技術的な観点ではそういうことだけど、僕個人がサイエンスに魅力を感じるのは、アートの表現行為との類似性や並置性の観点からです。
アートは個人的なステートメントに拠って立つけれど、サイエンスは絶対的かつ客観的な真実を目指す営みですよね。でも目的を達成するためには、サイエンティストは常に想像力をフルに使って新しいことに取り組み、クリエイティブでいなくてはいけない。
僕はサイエンティストたちが自由な精神と徹底したロジック、職業倫理を組み合わせて新たな試みを続ける能力は本当に素晴らしいと思う。彼らの生み出す結果は美しくて普遍的なものだし、ある意味彼らこそがより優れたアーティストだと思えることもある。僕自身の作品制作に関していえば、自分の直観が進むべき方向に導いてくれないときは、ロジックに従って「次はこれをやるべきだ」っていう理由を探していくし、それが状況を打破してくれることも多い。その意味では僕は結果にフォーカスするというメソッドをアート以外の領域から学んでいると言えます。
《Lumière》(2013-)
近年のHenkeの主要なモチーフであるサウンドとレーザー光をもちいたコンサート・ピース。光そのもの、あるいは視聴覚装置としての映画技術の発明者リュミエール兄弟の名を冠したこの連作では、作家自身が作成したデバイス制御フレームワークによって音響と連動する光のキネティクスを軸に、白色レーザーの描く幾何学的形象からさまざまな色調・運動の組み合わせの展開を通じて、独自のオーディオ・ビジュアル・マテリアリズムを追求している。日本国内でもHenkeのテクノ・ミュージック名義Monolakeのサウンドと組み合わせたパフォーマンスセットの上演など、制御技術、アウトプットを相乗させながら数々のイテレーションを繰り返している(本稿公開時点での最新バージョンはLumière III)。
今回紹介したあなたのエッセイの中で、アートはアートとして自律したものであり、それを「科学的リサーチ」であると呼ぶことは適切ではないと述べられています。しかし、それでもアートとサイエンスの間に、コラボレーションやお互いに影響を与え合う可能性はあるのでしょうか。
Henke: このエッセイでは、あくまでことばの「使い方」の問題だけにフォーカスしています。僕らが生きている現代社会の一部では、科学の達成してきたことが単なる「意見」の一つに過ぎないと主張する動きがあって、それは本当に危険だと僕は考えている。だからこそ、科学的リサーチの本質を詳細かつ明確にとらえることが重要だと思っているんです。
僕は、3000年前に地球が創造されて人間が恐竜と一緒に生きていたなんて信じる人たちと議論したくはない。非科学的な目的で科学の言葉が使われているのをみると、科学の自律性が危うくなってしまうように感じます。アーティストとして僕がやっているような、制作のための調査(investigations)は、科学的リサーチとは、確実に何かが異なっている。それぞれが別の方法論について語っているということを明らかにしておくために、僕は自分のやっていることを科学とは別の言葉で表したいんです。
とはいえ、アートとサイエンスのコラボレーションについては非常に可能性を感じています。新しい色やマテリアル、僕らの世界をかたちづくる新たな数学的ツールなど、サイエンスのもたらす恩恵を最大限活用できることがアーティストにとって幸せなことだというのは明らかです。
ただ逆に、サイエンティストがアーティストから何かを学ぶことができるか、についてはまだそれほど明らかな答えはありません。先ほど、優れたサイエンティストとは想像力を最大限に活用する発明家であると言いました。彼らは未知の領域に踏み込んでいく勇気を必要としています。アートの実践を通じて、アーティストはそのための戦略を開発しなくてはいけないし、サイエンティストに対して、創造性を生み出すためのコンセプチュアルなアプローチ方法を提供することもできるかもしれない。
あなたは「狂信者から科学を守らなくてはいけない」とも述べられています。ここで頭に浮かぶのは、いわゆる”Post-truth”と呼ばれる、社会や個人、メディアの言論など、主体によって異なる「真実」が林立しているという現代的状況の捉え方についてです。このような状況において、あなたにとっての科学の「真実」とは何なのでしょうか。
Henke: 自然科学において、答えはとてもシンプルです。「ある理論が、矛盾なく高い信頼性をもって未来を予測できるとすれば、その理論は正しい」というものです。これについては(改良することには開かれていますが)、議論の余地はありません。
人類はニュートンの時代から、塔の上から投げた石が地面に落下するまでにどれぐらいの時間がかかるのかを知っていました。アインシュタインたちは、この理論を大幅に拡張する問題に取り組む必要がありましたが、それでもニュートン力学自体の価値を変えることはありませんでしたし、現に僕らは今でも石の落下速度を計算するときにはニュートンの運動の法則を使っています。そこには「意見」の介在する余地はないんです。
もちろん、より複雑な問題に取り組むときには、その答えも同様に複雑なものになりますし、そのための客観的な解法もより難しいものになります。それでも、善良なサイエンティストは、その過程とメソッドと結果が明らかであり、証明/反証可能であることを示すためにきちんとコミュニティに公開しています。
「わたしはこれが20万年前から存在していると信じている」と言うことと、「わたしたちが集めたデータによると、これが20万年前から存在していることは95%の蓋然性で確かだと考えられる」と言うことの間には根本的な違いがあります。後者は他のサイエンティストの検証/反証に開かれているのに対して、前者に対しては誰も何も言い得ないのです。これがサイエンスの原則であり、アートと異なる点です。芸術表現に対しては、誰も絶対的かつ客観的な指標では判断できないわけですから。アート・マーケットにおけるプライシング以外に、ある絵画作品と別の作品を芸術的なクオリティにおいて比較するための数値指標はありません。アート・マーケットに苛立ちを感じるものこの理由からです。
Bound Bawは、アートサイエンスという概念を軸とした芸術大学の新たな教育的チャレンジを母体としています。この取り組みは社会にどのようなインパクトを与えることができると思いますか。
Henke: 教育を通じて、サイエンスがビューティに満ちていること、そしてアートがサイエンスに依拠していることを学生に伝えることは重要です。そして、科学の思考方法が、ある側面でアートの営みを助け、恩恵をもたらすことも伝えていく必要があるでしょう。それぞれの領域が相互に関連をもっているということですね。
最後の質問です。あなたにとって”Art Science”とはなんでしょう?
Henke: この概念がより大きな意義をもつためには、この言葉の組み合わせについて、より詳細な議論が必要だと思います。発明家としてのサイエンティストがもつべき芸術的思考を意味する「サイエンスのアート」なのか、芸術制作のプロセスに科学的思考を応用する試みとしての「アートのサイエンス」なのか。
現時点では、様々な意味をもちうる言葉だと言えるでしょう。
CREDIT
- TRANSLATION BY SATOSHI HATTORI
- エンジニア。IAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)、東京芸術大学大学院映像研究科修了。東京のオーディオビジュアル表現を開拓するプラットフォームBRDG共同運営。電子音楽、オーディオビジュアル領域を中心に執筆/通訳/翻訳も手がける。 http://brdg.tokyo
- INTERVIEW BY ARINA TSUKADA
- 「Bound Baw」編集長、キュレーター。一般社団法人Whole Universe代表理事。2010年、サイエンスと異分野をつなぐプロジェクト「SYNAPSE」を若手研究者と共に始動。12年より、東京エレクトロン「solaé art gallery project」のアートキュレーターを務める。16年より、JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」のメディア戦略を担当。近著に『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』(ビー・エヌ・エヌ新社)、共著に『情報環世界 - 身体とAIの間であそぶガイドブック』(NTT出版)がある。大阪芸術大学アートサイエンス学科非常勤講師。 http://arinatsukada.tumblr.com/