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2017.10.04
アルスエレクトロニカ・レポート(1) AI時代に見つめるもうひとつの"I"
TEXT & PHOTO BY AKIHICO MORI
世界最大級のメディアアートの祭典「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」が、オーストリアの都市・リンツで9月7日から11日にわたって開催された。今年のテーマは「Artificial Intelligence - The Other I(もうひとつの"I")」。人間の仕事を代替し、世界最強の囲碁棋士を打ち負かし、画家・レンブラントの“新作”すら描く――かつてはSFの存在であったAIは、デジタル・エイジに生きる私たちにとってはニュースの定番ネタになり、もはや“奇妙な隣人”だ。私たちは漠然とした期待と不安を抱きながら、見えず、触れることもできないが、社会の中で存在感を増す奇妙な隣人とともに生きている。世界中のアーティストたちがこの奇妙な時代へ投げかけた問いがどんなものであったのか、レポートする。
“私たちの人工知能に対するビジョンは、自分の完璧な似姿をもつものをつくりだしたい衝動と、それによっていつか破滅に追いやられるという恐怖が絡まり合うことで、他の技術に対する観念とは全く違うものになった。
そのため人工知能は、今日のデジタル・エイジにおける人間観と世界観を考える上で、最上の投影画面になったと言えるだろう。――ゲルフリート・ストッカー”
ウェブサイトに掲載されたアルスエレクトロニカの芸術監督ゲルフリート・ストッカーによるエッセイ「Artificial Intelligence - The Other I」の一節は、今回のフェスティバルテーマを端的に示している。AIを、まるで鏡を通して向き合う2つの像のような、もうひとつの「自分(I)」の似姿であり、さらに私たち人類とは他なる「知性(Intelligence)」として捉えてゆくことだと解釈できるだろう。
アーティストの知性が捉えた、人工の知性とその未来
3年前からアルスエレクトロニカ・フェスティバルの主会場となった「POSTCITY」はリンツ中央駅のすぐ近くにある。かつてのオーストリア郵便サービス物流施設をリノベーションした施設だ。
入り口のゲートをくぐってすぐに目に飛び込んできたのは、工事現場で目にするショベルカーだった。方向転換をしながら、時折地面に置かれた大きなタイヤを持ち上げている。会場の設営だろうと眺めていると、操縦席にパイロットがいないことに気づく。
ロボットが「もうひとりの自分」になる
この6トンあるショベルカーを操縦しているのは、その傍らにいる、多数の電極が搭載されたヘッドギアを頭部に装着した人物だった。その人物はじっと着席し、精神を集中しているように見える。時折視線をディスプレイに向けると無人のショベルカーが動き出す。
すでに展示は始まっていたのだ。最先端のBCI(Brain Computer Interface)によって、脳派と目の動作で、ショベルカーの操縦を試みるプロジェクト「ET 65」だ。
BCIは、すでに身障者のための支援技術として注目されている。「サイボーグのオリンピック」と称される、昨年スイスで開催された強化義体世界大会「サイバスロン」でもオーディエンスを驚かせた技術だった。電動義足・義手などの最先端の支援技術を身にまとったパイロット(大会ではアスリートのことをパイロットと呼称する)が多種多様な競技を繰り広げるサイバスロンでは、四肢麻痺を患ったパイロットがBCIとビデオゲームで行うレース競技が展開されていた。
BCIを脳の中の思念だけで、現実世界に影響を及ぼすことができる技術だと捉えれば、これらの展示からは、未来の人間のアイデンティティとは何かという問いが浮かぶかもしれない。
先の展示では、そもそも操縦者はショベルカーの近くにいる必要がないことに想像が及ぶ。自宅にいても、あるいは通勤電車の中からでさえ、操縦が可能だろう。
BCIの出力先をショベルカーではなく、人間のように動くロボットにすることも将来的に可能かもしれない。ロボットの「もうひとりの自分」を自在に操り、離れた場所からこの世界を自由に動き回ることができる。それは四肢麻痺のような、重度の身体障害を患う人々を、不自由な身体から自由にする技術となり、広くは人類を、「ひとつの肉体にひとつの心を持つ」存在から解き放つのかもしれない。
その時、操る人は、どこからが自分で、どこまでがロボットと判断して現実と関わるのだろう? そのロボットと現実でコミュニケーションする人は、自らは誰と話し、関わっていると感じるべきなのだろう?
誰もが立ち止まった、ナイロン製の「動物」
さらに会場を進むと、今回のフェスティバルでもっとも印象に残るインスタレーションのひとつがあった。来場者には「モンスター」などの愛称で呼ばれていた、Cod.Actの「Nyloïd」というサウンド・スカルプチャーだ。本作は文化庁メディア芸術祭の受賞作品として、2015年に国内で目にした人も多いだろう。
多くの人々が立ち止まり、モンスターが苦しんだり、もがいたりしている様子に笑い、またある時は怯えていた。当然ながらこのモンスターは生きていないし、地上に似たような生き物も存在しない。にもかかわらず、見る者はこのモンスターを「生きている」と感じてしまう。この作品は生命性の正体を、非常にシンプルな形で表現しているのかもしれない。
Cod.Actはアーティスト、アンドレ・デコステルドとミシェル・デコステルド(André et Michel Décosterd)によるユニットだ。作品の近くでメンテナンスをしていた彼らに、この作品を生きていると感じるのはなぜだろう、と尋ねてみた。すると彼らはこの作品を「サウンドとムーブメントの組み合わせの妙によって生み出されている“動物”」だと語ってくれた。
Nyloïd は、長さ6メートルの3本のナイロンのバーを、それぞれの“足元”にあるモーターで“ねじる”ことによって動かすというシンプルな構造の作品だ。バーをねじれば、もとに戻ろうとする反動が生じる。3本のバーを組み合わせてねじり、その反動で逆向きの力が分散し、それらがあいまって時にはこんがらがったりする(おそらくアーティストらにも予測できない場合もあるだろう)。ランダムで複雑な動きを繰り返し、好き勝手に暴れまわる。その動きをヘッドに内蔵された加速度センサーが知覚し、サウンドが出力されるのだ。
シンプルな要素で構成されていたとしても、その要素間に複雑な関係性を持ち、複合的な構造をとることができるものに、私たちは生命性を見出すことができる。いってみれば生命性を支える“骨格”を、この作品は示しているのかもしれない。
人間の「主体」はどこにあるのか
POSTCITYの広大な地下フロアにはまるでアリの巣のように展示空間が広がっていた。そのひときわ暗い一室に、小学生の子どもたちと思われる朗読の声が響く。誰もいないはずのクラスルームで、23もの機械が自動的に本を開き続ける「リーディングマシン」がそこにはあった。
この作品は、生徒の主体的な選択なしに、教室でひたすら教科書を朗読させるという、台湾の教育の実情を揶揄している。台湾のアーティスト Lien-Cheng Wang は、「政府は人間的な思考や自己探求を育むのではなく、金を生み出す機械をつくろうとしている」と語る。
人間性をかえりみない教育が、いずれは簡単にAIに代替される人間を生み出すことへの警鐘とも受け取れる作品だ。
展示を見ていくにつれて、今回のフェスティバルには単純なAI活用の優劣を競うような作品がほとんどないことに気づかされる。言ってみればアーティストの目を借りて、AIがもたらす未来をともに見つめていく、そんな体験ができる展示だった。テーマを聞いて最先端のAI技術を用いたアートが集まっていることを期待していた人には肩透かしに感じられたかもしれない。
しかしPOSTCITYに充満した、アーティストがいま“知覚”しているもの――それは時に美意識であり、ジャーナリズムであり、また狂気でもあるだろう――を胸いっぱいに吸い込み、言葉にして吐き出す時、AIという存在をより深く問う自分に出会う瞬間がある。それはフェスティバルに参加した多くのオーディエンスが感じたことではないだろうか。
メインビジュアル:Robot, Doing Nothing / Emanuel Gollob (オーストリア) and Johannes Braumann (オーストリア) Photo by Tom Mesic
CREDIT
- TEXT & PHOTO BY AKIHICO MORI
- 京都生まれ。2009年よりフリーランスのライターとして活動。 主にサイエンス、アート、ビジネスに関連したもの、その交差点にある世界を捉え表現することに興味があり、インタビュー、ライティングを通して書籍、Web等で創作に携わる。 幼い頃からサイエンスに親しみ、SFはもちろん、サイエンスノンフィクションの読み物に親しんできた。自らの文系のバックグラウンドを生かし、感性にうったえるサイエンスの表現を得意とする。 WIRED、ForbesJAPANなどで定期的に記事を執筆している。 http://www.morry.mobi