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2017.12.13
無数の家電を祀る奇祭〈和田永「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」~本祭Ⅰ家電雷鳴篇~〉
TEXT BY ETSUKO ICHIHARA
ロストテクノロジーを活用して、古家電を楽器化するプロジェクトで世界的に活躍するアーティスト和田永。これまであらゆる人を巻き込みながら新たな楽器を創作・量産し、徐々にオーケストラを形づくる同名のプロジェクトを推進してきた彼が、今年クラウドファンディングを利用して前代未聞の「奇祭」を興した。東京タワーのふもとで、家電の雷鳴が響く「電磁盆踊り」とはいかなるものだったのか? 同イベントに出演者として参加したアーティストの市原えつこが解説する。
東京生まれの、とある少年がいた。
彼は幼い頃に両親に連れられたバリ島で現地の神鳥「ガルーダ」の舞に衝撃を受け、ガルーダにさらわれる恐怖に取り憑かれながら幼少期を過ごした。アナログテレビの砂嵐に精霊の存在を見出した彼は、古びた電化製品を妖怪的な存在として認識し、やがて「ブラウン管テレビが埋め込まれた巨大な蟹の足の塔がそびえ立つ場所で、音楽の祭典が待っている」と確信する。
大学に入学すると古い家電を楽器へと改造することに取り組み、そのパフォーマンスは一躍、国内外から注目を浴びることとなった。
彼の名は和田永。旧世代の録音機であるオープンリールデッキをはじめとしたロストテクノロジーに着目し、「Open Reel Ensemble」「Braun Tube Jazz Band」といった古家電を楽器化するプロジェクトで国内外から注目を浴びているアーティストだ。
青年となった彼は、老後の予定に取っておいた「蟹足の音楽祭の開催」というビジョンの実現に思いもよらず早期に取り組むこととなる。かくして、東京タワーのふもとに位置する「スターライズタワー」にて、世界のどこにもない電磁電波の奇祭 〈和田永「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」~本祭Ⅰ:家電雷鳴篇~〉が執り行われた。
「最先端」は常に更新される。そして古びたかつての「最先端」はやがて世界の片隅においやられ、時代の藻屑となるのが世の常である。特に技術革新の流れが恐ろしく早い昨今、その流れはさらに早まっている。2011年の地デジ化により、大量のブラウン管テレビが廃棄されたことは記憶に新しい。
そうして役目を終えた古い家電に「楽器」というまったく新しい役目を与えて蘇生させ、妖怪化した家電のうめき声を奏で、古家電を供養する盆踊りを開催するーー正気で考えると到底思いつきそうもないし、思いついたところで常人はやろうとも思わないだろうこの企画を、和田永は凄まじい熱量で注力し、数年におよぶ試行錯誤の結果、ついにやり遂げてしまった。
はじめは単なるスケッチに過ぎなかった彼の「妄想」が、みるみるうちに周囲を巻き込みムーブメントと化しながら具現化し、ついに日の目を見ることとなった。
かつてより彼の熱狂的なファンだった筆者は、電磁盆踊りにおけるブラウン管太鼓奏者・および自作のナマハゲに扮して(和田氏にとって、ガルーダはナマハゲのような存在だったという)盆踊りに参加するというお役目をいただき、記念すべき奇祭の現場に潜入した。
電磁・電子・電波の奇祭の幕開け
東京タワーの根本にある「スターライズタワー」スタジオ。アナログ放送の終焉という時代の変遷の象徴的シンボルのふもとで電磁電波の祭りは行われた。
リハーサルのため昼前に会場を訪れると、巨大なヤグラが組み上げられている。朝早くから男衆が組み上げたもののようだ。奇妙な楽器が次々と積み込まれ、動脈のような配線がはみ出している様子は、この会場を支配する巨大生物のようにも見えた。
彼の妄想に共鳴し、共に楽器を開発する「Nicos Orchest-Lab(ニコスオーケストラボ)」のメンバーたちが次々と得体の知れない楽器を打ち鳴らし、リハーサルが着々と進行していく。この楽器は一体何なのか問うと、皆が心底嬉しそうに自前の「楽器」について説明する。ハードながらも異様に多幸感のある空間である。
ミュージシャンとしての実力や経験値も高い和田氏。筆者は自分の担当パートのリハーサルを終えただけでクタクタになったにも関わらず、朝からぶっ通して設置・全パートのリハーサルを重ね疲労困憊のはずの彼はピンピンしている。もはや人知を超えた謎の生命エネルギーが満ちているように見えた。
多くの人を巻き込み壮大な妄想を実現するためには、心身のタフネスが必要であることを思い知った(ただし、電磁波を長く浴びると吐き気はしてくるらしい)。
古家電の鎮魂と蘇生の音楽祭
全てのリハーサルが終わってまもなく、祭りが開場した。フタを開ければ500人超の観客で会場は大入り満員、盆踊りができるのか危惧するほどの人数である。本祭は2部構成となっており、前半では独自開発された家電楽器を用いた演奏会が行われた。
序盤から目を引いたのが「ブラウン管ガムラン」。ブラウン管から出る電磁波を人体を通して拾い、ギターアンプに伝えることで音が出る仕組みだ。この楽器は和田氏がこれまで「Braun Tube Jazz Band」というプロジェクトで単独演奏していたものだが、新たな「ブラウン管奏者」が生まれ、4人体制でのグルーヴ感のあるパフォーマンスへと進化していた。
その背後では、カメラ撮影に利用するストロボが閃光を放ちながら奇怪な音をあげる。これは「ストロボ鑼」という名の自作楽器らしい。異界の巨大な怪植物のような存在感を放ち、パラレルワールドに迷い込んでしまったかのようなインパクトがある。
続いて霧ヶ峰のエアコンが琴に改造された「エアコン琴」がしとやかな音色をつくっていく。エアコンから醸されるそよ風が女性奏者の髪を揺らしていくのがなんとも艶めかしい。
そして目玉楽器、ギターアンプから歪んだメロディを奏でる扇風機による楽器「扇風琴(せんぷうきん)」。アルス・エレクトロニカでもスタンディングオベーションが起こったパフォーマンスだ。我々にとって馴染みのある家電である扇風機から、まるでジミヘンの如き轟音ノイズが繰り広げられた。
クライマックスでは、ZAZEN BOYS 向井秀徳氏が登場。
扇風琴バックバンドを従えつつ「KIMOCHI」を熱唱したかと思うと、おもむろに扇風機ギターを手に取り、勢い良くかき鳴らす向井氏。
音楽界におけるレジェンドと扇風機のコラボレーションの破壊力に、沸点を超えたように盛り上がる会場だった。
いずれも既存の楽器はひとつも使われておらず、家電が「化けた」楽器のみを用いて演奏が繰り広げられているのだが、その事実を忘れてしまうほどに音楽的にクオリティの高いパフォーマンスが続いた。
電磁とシャーマニズム、トランス
家電演奏を経て、いよいよ電磁盆踊りの幕開けとなる開会式が行われた。
前口上として、高野山の住職である飛鷹全法氏が捨てられゆく電化製品への弔いの念を表明し、お経を唱える。念仏が唱えられた瞬間に会場から「ウォー!!!」歓声が上がる、という現場を人生で初めて目撃した。
光栄にも、開幕式にて「ブラウン管大太鼓」を打ち鳴らすという任務を頂いたため、奏者としてヤグラに立つことができた。太鼓奏者としてご一緒したのは、役目を終えた家電をハイペースで収集し、和田氏とは違う角度から家電に役目を与える「家電蒐集家」松崎順一氏。彼が私の太鼓叩きの相方であった。私は電磁電波に身を捧げるデジタルシャーマンとして巫女装束を纏い、松崎氏は家電量販店のハッピを着て参戦した。
本職の太鼓叩きでもない軟弱な身のため当然腕は痛くなるのだが、次第に会場の熱量や空気と一体化し、無我の境地となった。また目の前のブラウン管が放つ電磁波に頭がやられているためか、疲れがまったく気にならなくなってくる。
電磁波のドラッグ・トランス作用により無事に出番を終えることができた。
ブラウン管ノイズにまみれながら改めて実感したが、オカルト的なものと電気・電磁波はやはり極めて親和性が高い。科学と錬金術が密な繋がりを持っていたように、写真や幻燈が亡霊を視覚化する手段だったように、電話にまつわる怪談が絶えないように、降霊術が科学的調査の対象だったように、オカルトは科学やテクノロジーとも密接に関わっている。大学時代にオカルト芸術について研究している早大・岡室美奈子教授の講義で知った概念だが、まるでそれが目の前に具現化したかのような体験を味わった。
その昔、連日電磁波にまみれている和田氏が早死にしないかと心配していたことがあったが、むしろ逆で、電磁波の作用により人ならざる力を身につけることができるのかもしれない。
失われたテクノロジーを慰霊する盆踊り
開幕式を終え、いよいよ盆踊りが始まった。
日本人にとって馴染みのある行事である盆踊りは、死者おくりの儀式でもある。お盆に帰ってきた先祖の霊をもてなし死者とともに踊る、この世とあの世の狭間のような空間だ。黒い布で顔を隠した踊り手を亡者に見立てる青森県の「西馬音内盆踊り」のように、そうした特性が色濃く残る盆踊りも数多く存在する。
「盆踊りは人間の慰霊のため、電磁盆踊りは家電の慰霊のためのもの」という飛鷹氏の前口上よろしく、この日の「電磁盆踊り」はこれまで時代の藻屑と成り果てた無数のテクノロジーたちを祀る、鎮魂の儀式となった。
盆踊りのように形のある同じ動きを集団で延々と繰り返していると、次第に自我を忘れてトランスし、大きなうねりと一体化するような感覚になることがある。盆踊り的シャーマニズムにとって「振り」は重要な要素だ。
電磁盆踊りにおいて、振り付けを担当したのは国際的に活躍するパフォーマンス集団「快快-FAIFAI-」。彼女らのレクチャーに従い、観客がその場で独自の盆踊りを習得していく。
筆者は自作のナマハゲに扮しており、激しい動きができなかったためナマハゲの振りをしながら傍観しているスタンスだったが、その場にいた皆が本当に楽しそうに盆踊りの渦中にいた。
祝祭が拡張する、人類のプリミティブな想像力
ちなみに電磁盆踊りの歌詞は、前半が昭和の高度経済成長期を彷彿とするような「死語」満載の歌詞、後半がテクノロジーの発達のすえに来る人工知能の時代を取り上げたものとなっている。
「人・工・知・能 人・工・知・能
知能で負けても 阿呆なら負けぬ
踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損損」
そう、合理性や効率性において、人工知能に我々のような阿呆が勝ることなどできない。だからこそ、一人のアーティストが今回の電磁盆踊りという奇祭の妄想を着床し、多くの人が利害関係を超えて集まっては、各々の創造性が爆発し、祝祭というムーブメントの中で人々が踊り狂う……という一連のプロセスに、合理性を超越した人間独自の狂気や想像力のたくましさ(=阿呆の力)を感じ取り、心強く思った。
そもそも「AIに仕事を奪われる」という恐れの論調が根強いのはなぜだろうか。人々は労働を手放すことがそんなに怖いのだろうか?
労働は対価を得るための行為であると同時に帰属意識や有能感を生む。労働を取り上げられた先に私たちが恐れているのは、帰属先や貢献意識を失うことなのではないか? そうした地域社会の帰属感や地縁を育むためのプラットフォームが「祭り」の持つ機能でもあった。
効率、合理性により判断できる労働をAIが巻き取り、人類に膨大な「暇」がもたらされた後に私たちがするべきことは、生きていることを共に祝い踊り、隣人と笑いあい、人間が根源的に持つ狂気と創造性を解き放ち、同時にコミュニティとしての一体感を生じさせることのできる「祝祭」なのかもしれない。
シンギュラリティ以降の世界は総じてディストピアとして描かれるが、労働から解放された人類があたたかな狂気のなかで歌い踊る……そんなユートピアとしての未来が電磁盆踊りの体験から連想されたのだった。
CREDIT
- TEXT BY ETSUKO ICHIHARA
- アーティスト、妄想監督。1988年、愛知県生まれ。早稲田大学文化構想学部表象メディア論系卒業。日本的な文化・習慣・信仰を独自の観点で読み解き、テクノロジーを用いて新しい切り口を示す作品を制作する。アートの文脈を知らない人も広く楽しめる作品性から、国内の新聞・テレビ・Web媒体、海外雑誌等、多様なメディアに取り上げられている。主な作品に、大根が艶かしく喘ぐデバイス《セクハラ・インターフェース》、虚構の美女と触れ合えるシステム《妄想と現実を代替するシステムSRxSI》、家庭用ロボットに死者の痕跡を宿らせ49日間共生できる《デジタルシャーマン・プロジェクト》などがある。 http://etsukoichihara.tumblr.com/