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2018.09.19

南アフリカのライオン生息域から学ぶ、現代の生と都市デザイン

TEXT BY NAHO IGUCHI

ベルリンを拠点に活動する都市デザインから生命の探究まで、幅広く思想を拡げるアーティストの井口奈保は、「Human Animal」としてライオンたちの生息する南アフリカの大地を訪れた。そこで得た学びは、都市のエコシステムを再考し、都市で生きる私たちの精神の扉を開くものだった。

私たち人間は、人と人の間にだけよっているのではない。ヒト科は4000種を越える哺乳類に属する動物の一種。見たことのない生き物たちと遺伝子や特徴を共有する。いつからか、私のアイデンティティはHuman beingから離れていった。Human Animalと名付けた。

 

3年前に初めて降り立ったアフリカ大陸。行き先は、南アフリカ共和国の行政首都プレトリアから車で1時間半ほど北上したところに位置するケビン・リチャードソン・ワイルドライフ・サンクチュアリ(自然動物保護区域)。そのさらに数年前に日本からベルリンに移住していたこともあり、周りからは「ナホは次に南アに移住するのか」と噂されたりしているようだが、そういうわけではない。通うことに意味があるのだ。渡り鳥のように定期的に、何度も。

 

「なぜ南アフリカ?」はFAQの一つ。ベルリン移住の理由が絡んでくる。アートと言われるものを専門的に学んではこなかった私だが、アート活動に専念しようと決めたからで、「人間という動物(Human Animal)」として生きることが表現テーマだ。ちなみに、私にとってアートとは単純に、表現行為を意味する。表現行為とは、社会で当然とみなされる根本的仮定に対し問いを投げかけ、そのレスポンスとして自分が何かやってみるということだった。だから、アーティストというアイデンティティないしプロフェッションになってみること自体がアートの一環だった。

人間がどのようにアイデンティティを構築し、社会において役割、居場所、目的、意味を見出していくか? 私の仮説はこうだ。ある程度の年齢に達すると、人は社会との関係性において自己定義していく。言うまでもなく、他者からの認知、承認の反復が必要だが、最近の人間社会においては、自分の付加価値や意味を自ら作り、主張することが是であるとされる風潮が強い。そこで、自分で価値を定義することをすっぱり一旦停止して、他者が見る私(他己像)に完全に乗っかってみることにした。それがアーティストだった。アートバックグラウンドが何もないにも関わらず、「あなたはアーティストだね」と表現されてきたからだった。

文明社会にある「恐れ」からの解放

人間は動物であると、あえてリマインドするような言葉使いにしたのは、人間社会に対する素直な疑問からだった。数千年に渡る文化、産業、科学、そして近年の情報社会の隆盛は、人間を他の種とは一線を画する生き物にしたのは疑いの余地はない。それによって一部の人間が獲得した安心・安全・便利・豊かさは計り知れない(全人類に到底行き届いていないし、それを必要とせず生きている人たちもいるけれど)。

 

しかし一方で、それ故に、機能不全に陥っている部分があると感じていた。生き抜く上で不可欠な感覚器が麻痺しているように見える。それは「恐れ」だ。恐怖の感覚は死を回避する生存本能の中核であり、私たちが生き続けることをサポートしてくれる大切なもの。私は、人間社会において、それが誤作動していることが多すぎると思っていた。真の意味で命を危うくする状況ではないにも関わらず、社会・文化的に構成された価値観によって、メタ的な身の危険と判断し、恐れ慄く。それはやがて精神的壊滅をもたらし、肉体的な死にも繋がる。Civilized fear(文明化された恐怖)と呼んでいる。これに対し、純粋に命の危険を知らせてくれる恐怖を、Human animal fear と名付けた。この2つの恐怖の分別をつけられなくなってしまった人間が、不要な恐れを基軸に判断・行動することが、世界のOSになっているから、今の人間社会の多くの課題が発生していると思う。

サバンナを悠々と歩くキリン。

他の生き物たちは自分が何者で、どんな価値や目的があるかを主張せずとも、しっかりいのちの役割を果たし、エコシステムに貢献し、屍となって土に還る。なぜ人間だけが、そこに囚われ過ぎ、葛藤し、生きる資格を他者から判断・評価されたり、社会における価値が金銭といったごく限られたメジャメントのみで図られる仕組みとなっているのだろう?生まれ落ちたのだから、存在し、生き抜き、死に逝けばいいのに。人間の本質を考えれば、承認や意味の模索は生存に必須のことであり、完全になくすようなものではない。

これ自体が悪だと私は思っていない。単に、行き過ぎていると感じるだけだ。だから私は、Human empireだけに限定された意味、目的、価値ではなく、地球エコシステム内の他の生き物との関係性において、人間という動物が果たすべき役割は何かを問うようになった。

 

人間という動物として生きることの第一歩は、自分のCivilized fearを次々と手放し、Human animal fearを開拓することだった。抜本的にやらなければ意味がないので、社会の根底の仕組みであるお金を扱ってみた。すべて説明するとそれだけで一つの書き物になるので要約すると、私のいのち、存在そのものに対して愛と信頼を抱いているから、何の約束も見返りもなしにお金を送ってもらうというシステムを作った。6年目になる現在も続いている。お金と社会生活と人間のアイデンティティと命の安全性は切り離すことができない、という人間の固定観念をどこまで解けるかの実験。

開始して間もなく、仲間の愛と信頼で生きていると名実共に言えるようになったことで、私は言いようもない満たされた気持ちに溢れる状態になった。そして、問いが降ってきた。「どうして毎日、町中ですれ違うのは(ほぼ)人間だけなんだろう?」ペットや家畜、人間に大きな害を及ぼさない小動物、微生物、植物を除いて、社会で交流するのは人間だけだ。ただただ、それが不自然で怪訝に感じる日々が始まった。

野生のライオンに会いに行く

The Human Animal(私)が次に取った行動は、「My Fellow Animals(仲間である他の動物)に会いに行く」だった。毎日、通勤や通学で人間とすれ違うように、他の生き物とすれ違う日々を体感したかった。ベルリンやバルセロナや東京を動物で溢れさせたいのではない。それはあまりにエコシステムから隔絶してしまった人間固有の発想。他の生き物たちの生息地と人間の生息地が、まだ近接している場所を訪れたかった。北米のイエローストーン国立公園、パタゴニア、タスマニア、タンザニアのアルーシャ国立公園。世界中に神々しい自然が儚げながらもまだまだ残されている。まずは色んな動物の暮らしを知るために、ナショナルジオグラフィックやBBCのドキュメンタリー発掘に日夜明け暮れた。そんな中、Human animalのロール・モデルと言うに相応しい人物を発見した。通称「The Lion Whisperer」、ケビン・リチャードソンだ。

ケビン・リチャードソンと、メスライオンのエイミー。

ケビンは、彼が育ててきた動物のみであるが、ライオン、ハイエナ、豹という地球上で最強の捕食動物たちと類まれなる家族関係を結んでいる。麻酔銃もムチもなしに、ライオンたちのコミュニケーション・プロトコルに則って交流する。人間同士が一人ひとりと関係を育むのと同様に、ライオン一頭一頭、ハイエナ一頭一頭と信頼を作る。

あるライオネスはソウルメイト、あるライオンは兄弟、あるハイエナは尊敬するリーダー、ある豹はたまに立ち話を交わすご近所さん。それぞれとの距離感があり、歳月を重ねる中でアップダウンがあるという。とある出来事をきっかけに一度は絶縁状態になったライオンと、5年がかりで関係修復して大親友に戻ったこともある。そんな人間界を代表する生き物のケビンと彼のライオンたちに会うべく、彼が経営するサンクチュアリのボランティアプログラムに参加するようになった。

 

ケビン・リチャードソン・ワイルドライフ サンクチュアリでは、ボランティアはケビンと同じようにライオンやハイエナと直に交流できない。それは自殺行為だ。生まれた時から人の手で育てられており、野生動物よりも人間の存在に慣れているとは言え、捕食動物の本能は決して消えない。思春期に達する前までに関係性を構築しなければならない。

ライオンやハイエナは群れを作って生きる社会的動物のため、大人になってから初めて接触する存在は、どんな種であろうと基本は仲間として受け入れない。仲間になるとしても、死がついてまわる。例えば、青年期に入り、生まれた群れを出て独り立ちするオスライオンは、自分のプライドを作るために、既存のプライドへ道場破りのようなことをする。狙いを定めたプライドのトップとなるオスライオンに戦いを挑み、殺すか瀕死の状態で追い出すことに成功することで、自分のプライドを作るのだ。

そのような習性もあり、同種のライオンでも人間でも、大人になってしまうと、プライド外のものは部外者・敵となる。ケビンはサンクチュアリに住んでいるライオン、ハイエナ、豹を生まれた時やごく幼い時から知っており、20年近く日々接しているため、仲間として受け入れられているのだ。

他者(種)との「スペースを取る」 
ケビンの保護する動物たちにはそれぞれ名前がある。彼女はメスライオンのメグ。トップ写真はオスのボブキャット。

ケビンのようにライオンとゴロゴロ一緒に昼寝ができずとも、フェンス越しに20センチの距離でライオンと触れ合うだけで学んだことは図りしれず、新たに芽生えたHuman animalの感覚器がある。中でも鮮烈な気付きがある。前に述べたCivilized fearに関連するのだが、人間が失った致命的な感覚は、スペースを取ることだとライオンが教えてくれた。彼らは人間に比較的慣れているとは言うものの好きではない。だから、フェンスの周りにべったりボランティアが集まり写真や動画を撮っているとイライラしだす。ライオンは無駄な殺戮者ではないので、きちんと警告のサインを出す。威嚇の前の穏やかな知らせだ。耳や尻尾、ちょっとした表情やエネルギーを変える。人間以外なら種が違っても、犬でもチーターでもわかるサインだ。

 

だが、人間はライオンが発信するメッセージにまるで気づかない。だから、徐々に警告サインがレベルアップし、噛み付くような威嚇のポーズをとられる。すると、一瞬で恐怖に心臓が鷲掴みにされ、やっと後ずさる。それでも、スペースのあげ方は少なく、まだ写真を取るために粘る。だから何度も威嚇される。サンクチュアリのスタッフに最終的に指示されるスペースは3メートル、時には姿をすっかり隠さないといけない場合もあるし、視界から姿を消すだけでなく、エネルギーを落ち着かせないとライオンたち野生動物はすぐに察知する。スペースをあげるとは実際そういうことなのだ。

人間は「こうしたい」という執着や願望が強すぎて、Human animalとして自然な間合いを取れない。これは人間同士でも言えることだと、フラストレーションが溜まったライオンが完全に落ち着き穏やかになる距離まで離れた時に実感した。うまくいかない人間関係に陥る時、私たちはどれだけ相手に本当の意味でスペースを与えてあげているだろうか?

サイにはサイの「スペース」がある。

ボランティアの仕事に出かける通勤路は、舗装ゼロのサバンナの赤い大地だ。岩や石で車体がジャンプするジープに上下左右に揺られながら進む。インパラ、シマウマ、ヌー、ジャッカル、イボイノシシ、クードゥー、ワイルドボック、ダチョウ、ウサギ、サイ、キリン。名前を挙げだしたらキリがないほどの動物たちとすれ違う。彼らは常に間合いを読み、種を越えてコミュニケーションしあっている。絶対に侵食しない領域を守り合う。

それは互いへのレスペクトだし、無駄なことに頭を突っ込まない姿勢だ。本能だろうが理性だろうが源は関係ない。お互いのスペースを常に感じ、それを守る。人間はきっと、自分たちを他の生き物や自然からどんどん切り離し、人間帝国を築きげてしまったことで、間合いのとり方をすっかり忘れてしまい、かわいいと思えば相手のことはおかまいなしで近づき触ろうとしたり、写真を撮ろうとする。間合いのとり方が下手なのは、ペットの犬に対しても変わらない。彼らのコミュニケーション・プロトコルを無視して、人間主観のみでやり取りしようとする。

食べられたチキンは、"私"になっていく
ブチハイエナのジーナ。

ライオンたちのご飯を準備するのは、ボランティアの主な活動の一つだ。ここでもHuman animalの本来性を培うことができた。ケビンのライオンたちの食事は、近くの農場で飼育されている牛、馬、ロバ、豚が何かしらの自然な要因で死んだ際に無料で賄われている。農場としては、死んだ家畜の処理には通常費用が発生するため、ケビンのところが引き取ってくれるのは、お互いにウィンウィンな関係が成立している。嵐や落雷で亡くなる野生動物も重要なソースだ。

私の滞在中、雷に打たれた大量のインパラが運ばれてきたことがあった。ボランティアは解体担当のスタッフの補助をする。一から解体を手伝うこともあれば、大まかな部位にまでは綺麗に解体されたお肉をさらに小さくするときもある。いずれにせよ、斧と刃の長いナイフを使って大きな牛や馬の体を分けていく。分けたものは、ライオン、ハイエナ、豹(皆、名前がある)の誰に、どのお肉のどの部位を何キロ与えるか、毎回記録してダイエット管理をする。食事を与えるのもボランティアの仕事だ(もちろんスタッフの監督指示の元)。牛や馬だった死体が、解体によって少しずつ「食肉」「餌」に姿を変えていく。

ライオンたちにとっては丸々の姿こそがもっとも「餌」だろうが、私たちにとっては違う。やはり、自分たちが食べる形態に近いところまで刻まれて、初めて「お肉」という認識になり、「ちょっと美味しそうかも」と血や骨髄がダクダク流れ、骨が飛び散る中で作業しながら思ったりするのだ。

 

さっきまで牛だった存在が肉塊となり、ライオンたちが咥えていく。30分ほどの食事の時間の後、残った骨を拾い、住処を掃除する。お肉は跡形もなくなり、まさに漫画に出てくるような、これぞ骨!という見事な骨を回収する。もう牛やインパラはどこにもいない。どこに行ったかと言えば、ライオンの胃の中だ。生々しく直接的な変移を目の当たりにし、私は「そうか、インパラや牛はライオンになったんだ。」と至極当然のことなのに、そのようにはそうそう考えない、ハッとする気づきを得て、腕にずしりと響く重みを感じながら骨をバケツに入れた。この体験を繰り返すうちに、私はベルリンや日本のお店でお肉を買う時に、彼らが生きていた頃の歩いている姿を想像し、食しながら、チキンは私になっていくのだと体感するようになった。だから、私は鶏であるし、豚であるし、まぐろなのだ。

地球に土地を返していく

ベルリンに渡った当初のアートプロジェクトの一つがアイデンティティの再定義だと述べた。自分とは縁もゆかりもないアーティストという職業・定義になってみた。ケビン・リチャードソン・ワイルドライフ・サンクチュアリへ通うようになり、ライオンたちの咆哮を聴きながら眠りに落ちる日々を積み重ねると、私のアイデンティティはさらに変化を遂げ、私は鶏であり、牛であり、羊であり、そしてライオネス(メスだから)でもあるのだと感じるようになった。私であるとはなんなのか? 私であると何が証明するのか? 
証明する必要はあるのか? いのちに違いはあるのか? 私だと私が思っている者であろうと固執する必要があるのか? Human Animalが深まっていくと、自己が何の種であるかを主張したい欲求はだんだんと弱くなってきた。と同時に、相反することなく、Human Animalが他の生き物のために、この地球上で果たすべき役割が見えてきた

 

これまで人間の文明が他の生き物に与えた最大の負の遺産は、間合いの取り方を忘却したことに依拠すると思う。他の生き物や存在との距離感の塩梅がわからなくなり、自然界において無知になってしまった人間は、欲望にかられるままに土地をどんどん開拓したり、力が圧倒的に人間より強い動物に対しては、間違った恐怖に襲われて殺すか、外へ外へと追い出した。結果、他の生き物のためのスペースが猛スピードで減少している。だから、生息地を戻していくことが自然環境保護の近道になる。これだけ科学的知見とテクノロジーが発達した今だからこそ、人間という動物は、仲間である他の動物たちに土地を返すという役割を果たせるのではないだろうか。

ケビンは今春、ケビン・リチャードソン・ファンデーションという財団を立ち上げ、野生動物の生息地を守り、還していくという壮大なミッションの実現に本格的に乗り出した。野生の動植物たちは、どうやってお互いの種を保存し合いながら生存していくかを、理屈や理論ではなく自然の摂理として知っている。人間が、やれ動物保護だなんだと介入する必要など本来はない。放っておけば自然は勝手に回復し、繁栄していく。そのためには、だだスペースを与えてあげればいい。

 

地球へ土地を返していくことは、南アフリカの草原やアラスカの大自然で、野生動物に惚れ込んだ専門家だけが従事する「自然環境保護」という、なんだか遠いトピックなのではない。世界の到るところでHuman animalが実践していくことだと思う。だから私は、ベルリンでアーバン・デザイン・プロジェクトをやっている。ケビンのサンクチュアリで学んだもう一つ大事なことは、自然環境保護・管理の学問的知識だ。こういった理論体系はアーバンプランニングや都市のランドスケープデザインに十分生かされるべきなのに、フィールドとしてさかんな交流を目撃したことはない。

バイオミミクリのようなオーガニズムからヒントを得たサイエンス・テクノロジーはあるが、自然を守り、豊かにするための叡智が蓄積されている生物学、自然環境学、動物行動学は、「大自然」にだけ有用なのではない。都市に生きる私たちの環境には「小自然」「微自然」とでも言えるものがあり、そこに活用できるヒントが詰まっている。

そして、他の生き物に土地を返すためには、人間の生息地を一定に抑える必要がある。地理的拡大・拡張をやめなければいけない。都会の喧騒を避け、田舎や奥地に移住し、現代的クオリティ・オブ・ライフを追求するのはいいが、他の生き物のクオリティ・オブ・ライフを考慮するならば、都市に自然を取り戻し、Human animalとして暮らしやすい空間にアップデートしていきたいと思う。

Infomation

執筆者・井口奈保によるプロジェクト「Journey to Lioness」
journeytolioness.com

ケビン・リチャードソンのファンデーション
https://kevinrichardsonfoundation.org/

現在、ケビン・リチャードソンは野生動物の生息地を守るための土地購入を目的としたクラウドファンディングを実施中。
https://www.thundafund.com/project/landforlions

 

CREDIT

Naho iguchi
TEXT BY NAHO IGUCHI
2013年にベルリン移住。自らの生活すべてをプロトタイプとし、生き方そのものをアート作品にする社会彫刻家。人間社会に根ざす問いに、向き合って答えを見つけるのではなく、問いの向こう側に目を向ける。アート活動の傍ら、ベルリンの遊び心に満ちた文化を日本やアジア諸国と掛け合わせ化学反応を生むべく、多岐に渡る企画のキュレーションを行う。最新プロジェクトは http://nion.berlin/

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