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2016.10.21
「ラディカル・アトムズ」がもたらす、こころの革命 ― アルスエレクトロニカ2016 レポート
TEXT BY NAHO IGUCHI
世界最大級のメディアアートフェスティバル「アルスエレクトロニカ」。今年掲げられたテーマは「ラディカル・アトムズ – 現代の鍊金術士(Radical Atoms – Alchemists of our times)」だ。バイオテクノロジー、コンピューテーショナルなどの技術進化によって、物質そのものをコントロールできる時代がやってくる。そんな時代に、アートは何ができるのか? 今年のフェスティバルテーマから見えてきた、現代のテクノロジーと人間の欲求の関係を探る。
デジタルとフィジカルが交錯する未来
2016年、9月8日〜12日に開催されたアルスエレクトロニカ・フェスティバル。オーストリア第3の都市リンツにて、30年以上に渡り開催されているテクノロジーとアートの祭典だ。昨年からは、リンツ中央駅横にある廃墟となった旧郵便集荷場を「POST CITY」(郵便を意味する「ポスト」と、未来の街「ポスト・シティ」という二重の意味を含む)と名付けたメイン会場を中心に、フェスティバル中はリンツ市内の各所でイベントが展開される。
今年のテーマは「ラディカル・アトムズ(Radical Atoms)」。MIT Media Labの石井裕教授率いるタンジブル・メディアグループによって2012年に提唱された世界観だ。
http://tangible.media.mit.edu/
ラディカル・アトムズのビジョンは1997年に遡る。「タンジブル・ビッツ」という先行する概念があったのだ。それは、人間の触覚では知覚できない、ピクセルで構成される二次元情報空間にどうやったら直接触れ、動かすことができるか?という探求から始まった。
人間の物理的表現行為がそのままピクセルの操作行為に繋がるというもので、石井教授率いるタンジブル・メディアグループは、数々のタンジブル・ビッツのデバイスを発明した。
しかし、物質には原子(アトム)があるため、ピクセルのように無限の可能性を持って流動的に操作することができなかった。しかし、その原子の壁を克服するために描き出された次なるビジョンが「ラディカル・アトムズ」だ。これによると、コンピューテーションにより物質がダイナミックに変形可能となり、直接プログラミングができ、意味や価値の伝達が可能な上に、ピクセル同等の適合性を兼ね備えているのだという。
「ラディカル・アトムズ」は、デジタル情報が2次元領域を越えリアルタイムで実体化され、直接操作可能となり、瞬時にピクセルにも反映されるというヒューマンマシンインターフェース(HCI )の未来像だ。
「現代の鍊金術士」はどこにいるのか?
ラディカル・アトムズのように、何手も先を読み、常識や定理、物理法則に問いを投げかけながら明日の現実をつくっているのが、フェスティバルテーマに掲げられたもう一つのキーワード「アルケミスト(錬金術師)」だ。
アートと生物学をつなげた先駆者として知られるアメリカのアーティスト科学者ジョー・デイヴィスは、「天文学的園芸学」と題して、4億年前の鉱物の塩分の中に閉じ込められた微生物の遺伝子を再生し、現在の火星の環境にも順応できる生物を生成している。
ベルリンを拠点とするアーティスト、トム・クーブリは、もともと音楽家であるバックグラウンドを活かし、音という現象を視覚化、接触可能化(タンジブル)することを試みる。船の汽笛のようなシンプルな構造のホルンは、空気を送り込むとその振動でラッパ部分からシャボン玉を吹き出す。
音をリアルタイムで視覚化し、空気中で音の振動がどう広がり消えていくか、浮遊しながらパチンと弾けて消えるシャボン玉と、ホルンから響く揺らめく音を前にして、私たち人間は何を知覚し、感じるのか。見えなかったものに触れられるようになった新しい世界での人間模様をロマンチックでユーモラスな方法で見せてくれている。
同じく目に見えない音を素材に、奇妙な自然現象を再構築したインスタレーションがある。ネイヴィッド・ナヴァブとミカエル・モンタナーロの共作《Aquaphnia》だ。ここでは鑑賞者が発した声がいくつかの管を通過し、その振動が蒸気となって、ゴーストの断末魔のような音をささやき始める。その幻惑的な世界は、目に見えない「気配」のありかを知覚のすべてに訴えかけてくる。
ちなみに、このサウンドアーティスト、ネイヴィッド・ナヴァブは夜のライブでも、クッキングの最中に発生する音だけを使った驚くべきパフォーマンスを披露。ステージ上で中華鍋を豪快にふるったかと思えば、鍋の熱が上昇するときの轟音を会場いっぱいに響きわたらせる。その音がなんともクリアで痛快。最高としか言えないパフォーマンスでもあった。
In/tangibility —「ない」から「ある」へ
見えないものを見えるようにし、ただ聞こえるだけでなく触れられるようにする。「ない」から「ある」へ。0からnへ。
タンジブル・ビッツとラディカル・アトムズの挑戦は、情報文明以降の次なる進化、シンギュラリティー、生命倫理と言った角度から語られることが多いかもしれない。しかし、わたしは少し違った視点から興味をそそられた。
デジタル、バーチャル世界を徹底的に開拓し、スマートフォンやアップルウォッチ、クラウドコンピューティングがユビキタスを現実のものへと導いてくれた昨今、最先端の科学者が追い求めるものはタンジビリティ=接触可能性という原始的な欲求とも言えるところに向かっていること自体が非常に興味深いのだ。
わたしたち人間を駆り立てるのは「触れたい」という切なる願いなのだと痛感した。平たいピクセル世界を抜け出し、どうやったらデジタル世界に直接手を伸ばすことができるのか?
わたしは「触れる」という動詞が「コミュニケーション」という言葉に最も適した日本語訳だと考えている。もともと、人間の本質に関わる行為を表す言葉が、なぜ外来語しかないのか不思議だった。「意思疎通」や「相互理解」など、断片をとらえた日本語はあるものの、「コミュニケーション」が持つ包含的な意味と合致する日本語はなさそうに思えた。そこで、自分なりに対訳を考えてみることにした結果、辿り着いた言葉が「触れる」だったのだ。
生まれ落ちた瞬間から動物は身体的接触を求める。人間はその最たるものではないだろうか。食べ物を与えてもらうために赤子は泣いて母を捜す。食料採集のため、情報収集のため、子孫を残すため、社会を形成し続けるために、わたしたちにはタンジビリティが不可欠だ。
接触を可能にするのは至近性である。現時点では、触れたい対象物に物理的距離が近くないと触れることはできない。そのアトムの堅固さを越えようとするアイデアが、ラディカル・アトムズなのではないだろうか。
本来、至近性を許し、自らのテリトリーに他の生物を入れることは動物が安全と判断した時のみであり、受容や信頼、愛情をも意味する。接触可能性、至近性、親密性はわたしたちの生死を分かつ重要な要因だ。
社会的動物である人間にとって愛情と信頼が、国づくりにせよ組織作りにせよ家族作りにせよ、すべての基盤となる本能的動機だと思うのだが、愛情や信頼の醸成に不可欠だった至近性の重要度が下がっている時代に突入している。
たとえば、クラウドソーシングは距離を意に介さず、信頼構築がなされるようになった顕著な例だ。ラディカル・アトムズが近い将来に実現化すれば、それはさらに加速し、人間の空間認識、縄張り意識、安全と危険の判断基準、至近性の持つ意味が崩れ、再構築されることだろう。
ラディカル・アトムズによって地理的距離を越えて物理を操作できるのであれば、国境の持つ力、会社組織の編成の仕方、家族の定義が変わる。側にいなくても肌に触れることができるのであれば、セクシャリティもさらに多様性を増すだろう。ラディカル・アトムズは距離を持たない愛を生むかもしれない。
一方で、テクノロジーによって愛や信頼の定義や表現方法がそれこそ原子レベルで変わるとなれば、わたしたちの心理は混沌を経験するだろう。何を信じるのか。
これ・この人は愛するに足るのか否か?
わたしたちの意識と感情は、何を基準に判断し、信じようとするようになるのだろう?
過去に築き上げられた明確さが頼りなくなる薄暗い闇の中で、松明を灯すのはアートかもしれない。それはまた、宗教の立ち位置とも似てもいるし、宗教が果たしてきた役割をアートが担うようになるのかもしれない。かつてのように、ある社会におけるマスの人間たちが特定の宗教観という枠組みの中で「信仰心」を共体験するのではなく、個々人が己の信条のもとに額縁を選び、ストーリーを描くための「アート」という福音が、近い未来にやってくるのかもしれない。
CREDIT
- TEXT BY NAHO IGUCHI
- 2013年にベルリン移住。自らの生活すべてをプロトタイプとし、生き方そのものをアート作品にする社会彫刻家。人間社会に根ざす問いに、向き合って答えを見つけるのではなく、問いの向こう側に目を向ける。アート活動の傍ら、ベルリンの遊び心に満ちた文化を日本やアジア諸国と掛け合わせ化学反応を生むべく、多岐に渡る企画のキュレーションを行う。最新プロジェクトは http://nionhaus.com